ここから古への想い《3》「本多正純と佐竹義宣」―かつて自分を秋田へ追いやった男を、なぜ義宣は遇したのか—
- 8月20日
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2026年8月20日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光

佐野の新吉水第一公園に本多正純の「吉水陣屋跡」の石碑。そして、戦国時代「東方の衆」として佐野氏が一緒に歩んだ佐竹氏。1585年(天正13)須花の戦いで討ち死にした佐野家16代当主佐野宗綱亡き後養子先候補だった(候補は誰だったんだろう?) 歴史には、不思議な巡り合わせがある。
慶長7年(1602)、常陸54万石余を領した佐竹義宣は、徳川家康によって出羽へ移された。先祖代々の地・常陸を離れ、秋田・仙北を中心とする地へ。その後の石高は約20万石余となり、佐竹氏にとっては大きな転機となった。原因としては関ヶ原の戦いでの曖昧な中立、上杉景勝との密約説などあるが、しかし、本音は50万石、5万の兵力を有する外様大大名を江戸近く置くのは危険と思ったのではと┅私の推測です.


この転封をめぐっては、本多正信・正純父子の存在が伝えられている。『梅津政景日記』に関係する記事では、佐竹氏ほどの大大名には出羽一国を与えるべきだという意見に対し、「出羽一国では常陸と変わらない」として、半国程度でよいという趣旨の判断があったとされる。
もちろん、これだけをもって「正信・正純父子が佐竹氏を秋田へ追いやった張本人」と断定することはできない。しかし、佐竹家にとって、本多父子が好ましい存在でなかったことは想像できる。
そうです、佐竹義宣は常陸の美人を全員秋田に連れて行ってしまったとか、常陸領内の帳簿や財産を全て秋田へ持って行った(破棄した)とかの伝承からも推測できる。
時代は大きく動く。
元和2年(1616)、下野佐野藩、佐野信吉の改易後、佐野地方は本多正純の領地となった。そして元和8年(1622)、正純自身が失脚する。

しかも正純は、その年、最上氏改易後の山形で城地受け取りの任に当たっていたところ、自らが処分を受け、出羽由利へ配流されることになる。
かつて佐竹氏の運命を左右した側にいた男が、今度は佐竹氏のいる出羽へ流されてきたのである。ここからが、私には興味深い。
佐竹義宣は、正純を露骨に敵視したのだろうか。
少なくとも、後世の物語のように単純な「仇敵」という関係だけでは捉えきれない。『梅津政景日記』は、正純の配流後の動向を含め、秋田藩政や幕府との交渉を細かく記録している。梅津政景自身も佐竹家の重臣として、幕府との交渉に携わった人物である。
義宣の胸中を直接語る史料がない以上、「義宣は正純を許していた」と言うことはできない。
それ以前に幕府の中枢にいた人物が失脚とはいえ自分の領内に来る。当然幕府から監視も含めて多くの指示命令があったはず、これは遠国外様大名にはかなりの重圧だったと推測できる。
しかし、だからこそ考えてみたい。
自分たちを故郷から遠ざけた人物が、今度は罪人として自分の領地へ送られてきた。そこで、感情のままに扱うこともできたはずだ。
それでも、主君として、そして一人の人間として正純を扱ったのだとしたら――。
「歴史には勝者と敗者がいる。しかし、敗者になった者をどう扱うかに、その人間の本当の姿が表れる」
そこには、幕府への配慮だけではなく、常陸から秋田へ移された自分自身が味わった「失う者の痛み」を、義宣が知っていたからではないか。
これは史料が直接語っていることではない。私の推測である。
ただ、かつて人を左遷する側にいた本多正純が、最後には佐竹氏の領内で生涯を終えることになった。
歴史の皮肉とは、こういうところにこそ表れるのかもしれない。


本多正純は宇都宮藩15万石5千石改易、そして出羽由利に5万5千石で転封を拒否。結果、佐竹義宣預かりとなります。
そして、私の妄想ロマンの続きです。秀忠幕府は転封先を出羽にし、正純拒否後は佐竹義宣預かりにした理由はなんだったんでしょう?

本多正純が最後に移された横手は、戦国時代には秀郷流を称する小野寺氏の本拠地だった。
正純自身がそれを知っていたのかは分からない。
しかし、秀郷を祖とする武家が長く治めた土地に、秀郷ゆかりの佐野を領した男が、最後には流されてきた。
歴史とは、ときに人間の意思とは無関係に、思いもよらない場所で過去と過去を結びつける。
これは偶然なのだろうか?

参考資料
*梅津政景日記 江戸時代初期の久保田藩(佐竹秋田藩)の家老、梅津政景の日記、慶長17年(1612)から寛永10年(1633)まで、何年か欠落あり。

*「小山藩主本多正純」図録 小山市立博物館
*「佐竹氏関連城館」 茨城城郭研究会 他



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