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茶の道の伝承と下野の武将「皆川廣照」

2 日前
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更新日:12 時間前

2026年9月28日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 専務理事 岡田康男



『豊臣兄弟』裏話・・・

茶の道の伝承と下野の武将「皆川廣照」

いよいよ佳境に入ってきたNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」 豊臣秀吉は、弟秀長のサポートもあってか、武士の頂上に駆け上がり、関白の地位も手に入れ、いよいよ天下をうごかし始めました。(放送9月27日現在) そんなドラマの中に、不思議な存在として「千利休」が登場しているのに気がついた方も多いのではないですか?俳優・吉岡秀隆さんが演じていますね。今後の展開の中で、どのような役割になっていくのでしょうか? 「千利休」は、皆さんご存知のように茶道の創始者として有名です。 現代においても利休の流れを継承する流派として、茶道の三千家として「表千家」「裏千家」「武者小路千家」の三家が、その教えを綿々と受け継いでいます。


ただそんな千利休ですが、あまり知られていませんがいわゆる指南書や語録などの記録はほとんど残していません。

現在残されている利休の指南書で後世茶道界に大きな影響を与えたといわれる「南方録」という記録本がありますが、近年になって後世の偽書であることが認知されています。


では千利休の教えを伝承する資料はないのか?口伝による教えしか残っていないのか?


そこで研究者たちの間で重要視されてきたのが、千利休の高弟である「山上宗二(やまのうえそうじ)」という人物が書き残した天正年間の茶道の秘伝書「山上宗二記」です。


山上宗二とはどんな人物?


元々は堺の商人でしたが、早くに隠居し千利休に就いて茶の道に励んでいたといわれています。


千利休に20年の間茶の湯を学んだ高弟で、常に利休に同行していたといい、茶匠として豊臣秀吉に仕え、織田信長にも仕えたともいわれています。


はっきり物を言う性格だったともいわれ、天正12年(1584年)、不用意な発言で秀吉の怒りを買い、追放され、浪人となったといいます。


天正16年(1588年)頃から茶道に関する自筆の秘伝書「山上宗二記」をしたため、その写本を懇意にしている武将たちに授けました。そしてその中の一人が、天正18年(1590年)の秀吉による北条氏攻め、いわゆる小田原征伐の際に、当時茶の道を通して交友があった下野の武将・皆川廣照が秀吉の包囲軍に投降する際、宗二も同行したということです。そして宗二は、茶の道や文化にも造詣の深い皆川廣照に「山上宗二記」を託した、といわれています。


皆川廣照は、藤原秀郷の子孫である小山氏の流れをくむ下野国皆川(現在の栃木市城内・皆川地区)の武将(後述)で、宗二から託され受け取ったと思われる「山上宗二記」が、皆川氏の菩提寺である金剛寺に現在も伝わっています。


その後利休の仲裁により宗二は秀吉との面会が叶いましたが、またもなぜか怒りを買い、耳と鼻を削がれた上で打ち首にされたといわれています。享年46歳でした。


「山上宗二記」とは


山上宗二は、長く千利休の弟子として仕え、共に行動していたと伝えられています。


であれば、師・千利休の茶の道に対する考え方、思想、様式など、その後現代にまで伝わる茶の道の基本について、最も理解した一人と言えるでしょう。


千利休は、自らは指導書や記録書を残していません。後世は、利休の教えをまとめた書記が存在しますが、利休同時代の記録書としては、この「山上宗二記」が貴重な指南書として残されたものです。


茶の道において大切なことは?


この書には、長く千利休について、「茶の道」の様式や心構え、道具や茶室様式など多様な記載がありますが、有名な一語としては「茶の湯者は無能であれ」という言葉でしょう。


「山上宗二記」(下)と皆川廣照宛ての手紙(上)


原文


茶湯者ハ無能ナルガ一能也ト紹鴎弟子共ニ伝、注ニ曰、人間ハ六十雖ニ定命其内身ノ盛成事ハ廿年也、茶湯ニ不断染身サヘ道ニモ無上手ハ彼是ニ心ヲ懸ハ悉下手之名ヲ可取、但シ物ヲ書文字計ハ可赦ト云々、(「山上宗二記」)


抄訳


茶の湯者は無能であることが一番の能力である、と(利休の弟子である)武野紹鴎は弟子たちにいっていた。


人間の寿命は六十歳までというが、そのうち心身ともに盛んなのは二十年である。


常日頃茶の湯を精進していても、たったの二十年では「上手」といわれる域に達することはできない。


これは茶の湯に限ったことではなく、どの道でも同じことで、色々な分野に分散して力を注げば、すべての分野で「下手」と評価されてしまう。


これが山上宗二の美学なのでしょうか。


逆説的に読めば、決して「有能」になるな、ということです。


現代に置き換えてみると、「なんでも効率的な選択肢がいい、楽に儲かることが勝ち組」とされています。でも、そんなことを長く続ければ、誰もが自身を「有能」「上位」と思い込んでしまう。


それを山上宗二は否定しているのではないでしょうか。


皆様の周りにも、効率を求めた動きしかしない人がいるのではないでしょうか。人は何故か、経験を積めば積むほど、礼や儀を知れば知るほど、初心者を蔑んだり、上から目線で振る舞ったりしてしまうのではないですか。


人間はどこまでいっても無能であり初心であるのに、自身を有能だ、とか優れている、などと思うことは大きな間違いなのではないでしょうか。むしろ、何も知らないでいることを自覚しなければ、それから先の経験は生きてこないのではないでしょうか。


「山上宗二記」に記載された茶室の仕様


「山上宗二記」を受け継いだ藤原秀郷流武将「皆川廣照」とは


 


皆川廣照像(栃木皆川・金剛寺)


皆川廣照墓石(栃木皆川・金剛寺)


秀郷流小山氏の子孫で下野国皆川藩主、信濃飯山藩主、常陸府中藩藩主でもありました。


下野皆川城主のち栃木城主。


現代の栃木市の基礎を築いたといわれています。


皆川氏は、小山氏の子孫で小山氏、結城氏と並ぶ藤原秀郷の子孫長沼氏の流れをくむ名門氏族で、14世紀に廃嫡となったが、その後戦国時代に廣照の三代前の宗成が皆川の名跡を継ぎ、皆川宗成として復活しました。


廣照は処世術に優れ、小勢力ながらも上杉、北条、織田、徳川などの実力者に付き、江戸時代の譜代大名として生き残りました。


徳川家康の家臣になったのは豊臣秀吉による小田原征伐の時で、元々は宇都宮氏に従い北条氏の中にいたが、秀吉が20万の軍勢で小田原城を包囲した時に、家臣100名とともに決死の脱出、一気に城を抜けだしたといわれています。


群雄割拠渦巻く戦国の動乱の中で、北条氏と共に滅亡した武将や誰につくか戸惑った武将が多い中で、廣照は時代を見る目を持っていたと言われています。


家康も廣照の能力を高く評価していたといわれています。


また、廣照は狂言を催したり、茶道をはじめとする当代の文化に精通していたといわれています。


千利休の高弟・山上宗二から茶の道の秘伝書「山上宗二記」を託されたのも、なるほどと思われます。


歴史の経過には、有名な武将や人物をなぞるだけではなく、歴史の表舞台には現れない物語を想像してみると、また違った面白さを感じられるものです。


そんなことを想像し、感じながら大河ドラマ「豊臣兄弟」を見てみてください。また別な楽しさを見つけることができるのではないでしょうか。


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