歴史上の貴族や武士たちの名前の不思議!?
姓と名の間に「の」が入る人名と入らない人名について
2026年11月1日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 専務理事 岡田康男
歴史上の貴族や武士たちの名前の不思議!?
姓と名の間に「の」が入る人名と入らない人名について


「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」の活動をしていて、時々聞かれることがあります。
古代や中世の人物の呼称で、姓と名の間に「の」が入る人と、入らない人がいるのはなぜか、ということです。
「藤原秀郷=ふじわらのひでさと」「平将門=たいらのまさかど」や「藤原道長=ふじわらのみちなが」「紀貫之=きのつらゆき」のように「の」を入れて読む人名と、「上杉謙信=うえすぎけんしん」「織田信長=おだのぶなが」「徳川家康=とくがわいえやす」のように「の」を入れないで読む人名があります。
何か区別する決まりのようなものがあるのでしょうか?
ちょっと調べてみたら、時代の流れや政権などの都合によって、簡単に理解できない複雑な経緯がありました。
歴史を見ていると、突然苗字から「の」が無くなる時代があります。
それはいつでしょうか?
前出の平安時代の武士は皆「の」がつきますが、それが鎌倉時代頃からからつかなくなります。
その辺りが「の」の境界なのかもしれません。
今回は、「の」がつく名称とつかない名称、その規則を調べてみました。
氏姓制度が登場したのは・・・?
「姓(かばね)」の登場。
第十三代成務天皇が4つの「姓(かばね)」を与えたといわれています。
「姓(かばね)」は地位を表すもので、国造(こくそう・こくぞう・くにつみやつこ)、県主(あがたぬし)、和気(わけ)、稲置(いなぎ)、4段階の暗いといわれます。
「臣(おみ)」「連(むらじ)」制度の登場。
第十九代允恭天皇による制度といわれます。
「臣(おみ)」・・・地域名(大和盆地の地名)による呼称で、蘇我(そが)、平群(へぐり)、葛城(かつらぎ)など。
「連(むらじ)」・・・職制(担当する業務)による呼称で、中臣(なかとみ・なかつおみ/神と人の間を取り持つ)、物部(もののべ/物怪もののけを払う)、掃部(かたもり/宮中の掃除をする)、膳(かしわで/宮中の調理を担当する)、などがあります。
これら「姓」「臣」「連」など、地位や職制、地域名などが、その後の呼称制度の基準=原点の一つとなったと思われます。
天皇・朝廷より賜る呼称の始まりは?・・・ 「藤原氏」のはじまり
645年の乙巳の変やその後の大化の改新に大きな功績があったとして、天智8年669年、中臣鎌足の死に際し天智天皇より「藤原」姓を賜りました。これが天皇より姓を賜った始まりで、後世「四名家」と呼ばれる「源平藤橘」に繋がりました。
大化の改新によりスタートした中央政権制により氏姓登録制が始まり、最初の戸籍と言われる「庚午年籍」が登場し、人名呼称の重要性が増したといわれています。

古代〜飛鳥〜奈良〜平安時代前期の名乗り・・・ 「の」をはさむのは?「氏(うじ・うぢ)」
古代の頃、地域・地方を支配していた豪族を「氏(うじ)」といいます。
「氏(うじ)」は、朝廷(天皇)より賜った名乗りか、または朝廷(天皇)より認知された名乗りです。
「源平藤橘」の名門四家=橘氏、藤原氏、源氏、平氏や豊臣氏がこれにあたり、これらは全て「の」をつけるのがルールです。豊臣秀吉は「とよとみひでよし」は現代の歴史観では「の」を入れない呼称になっていますが、本来のルールからいえば「の」を入れて、「とよとみのひでよし」と呼ぶのが正しいといえます。
「の」は帰属・所属を意味しており、例えば藤原道長(ふじわらのみちなが)は「藤原氏に属する道長」と言う意味で、「属する」という帰属を意味する「の」の用法です。
この「氏(うじ)」は、後世一般的に氏族という意味で呼ばれた「氏(し)」ではなく、朝廷に仕える有力者を中心とした集団を意味します。飛鳥以前には成立していたといわれ、飛鳥・奈良時代を経て、平安前期に至る男子の個人の名には「の」が入ります。この「の」も、その職業や地域に「帰属・所属」している者という用法です。
この「氏(うじ)」には、職業を「氏(うじ)」の名称にした「物部」(もののべ)・「中臣」(なかとみ)・「土師」(はじ)などと称したグループと、住んでいた土地の地名による「蘇我」(そが)・「平群」(へぐり)・「巨勢」(こせ)などのグループがあります。
また、天皇から賜ったものだけではなく、その氏族が古代から名乗っていた名もありますので注意が必要です。
中臣氏、蘇我氏、大伴(伴)氏、阿部(安倍)氏、吉備氏などがこれにあたります。
平安時代後期から室町時代後期・・・ 「の」が入ったり入らなかったりする時代

「氏(し)」の意識が薄くなり「家(いえ)」が強くなりつつある時代です。このため名字(みょうじ・後に苗字と書く)という「家」の名が使われ始めました。
「家」の名の由来の元になったのは
・地名によるもの(例:足利) ・動植物名によるもの(例:楠) ・その他の名によるもの
などで、この場合、直接的に名称に結びつくため「の」がつかなくなります。
したがって、「家」の表記で名乗る場合と「氏」の表記で名乗る場合と、2通りの名乗りが現れます。
例えば、一条〇〇、鷹司〇〇、近衛〇〇、九条〇〇、二条〇〇などの五摂家は、「氏」の名で名乗るときは、すべて本来の「氏」の姓である「藤原〇〇」ということになります。
加えて、同時並行的に名前の姓と名の間に「の」をはさまない「苗字(みょうじ」が生まれてきました。
「苗字」は、平安末期から鎌倉中期頃「氏」を持つ氏族達が自然発生的に名乗り始めたものといわれます。
これは同じ氏族の中で区別するため、という説が一般的です。
その苗字の名の元になったといわれる一つは、邸宅(殿)の継承=称号の継承です。
奈良時代から、公暁などは自ら築いた邸宅の名称を称号として用いていました。
例えば、藤原良房=白河殿、藤原永手=長岡殿、藤原道長=御堂殿、という呼び方で、それが後世、「白河」「長岡」「御堂」などという苗字となったといわれます。
二つ目は、各世代が邸宅=称号の継承はしていないものの、呼び名の継承が「苗字」として定着化したケースです。近衛殿=「近衛」や九条殿=「九条」などで、「九条」は、九条などを通りの名だと思われがちですが、九条通りに面した邸宅と言う事で九条殿と呼ばれており、あくまでも邸宅の名称が由来です。
三つ目は、領地の継承により生まれた苗字です。
武士階級などは、領地を言い表すために、その領地の名称を称号=「苗字」として用い始めました。
新田=新田家、足利=足利家、相馬=相馬家、河越=河越家(川越)などで、邸宅や領地などはその後の子孫に分与ができないので、継承した者のみそれを「苗字」として使用し、それ以外の者は別の邸宅や領地を継承するか、他に築くなどして異なる「苗字」を使用し始めました。
例えば、「足利殿」といえば足利庄の継承者(当主)のみを指すので、以前の帰属を意味する「の」は必要なくなったといわれています。
ただ、「苗字」が一般化しても「氏」がなくなった訳ではないので、朝廷などに対しては「氏」を使用していました。

また、同じ時代でも、源頼朝(みなもとのよりとも)は「の」が入りますが、妻の北条政子(ほうじょうまさこ)、政子の父は北条時政(ほうじょうときまさ)で「の」が入りません。北条氏の北条というのは伊豆の国「北条」郷に住み着いたことを表す「苗字」で、正式な呼称は「平」です。正式な場面で使う本姓は平政子(たいら の まさこ)であり、平時政(たいら の ときまさ)なので「の」が入ります。
源氏の子孫である足利氏や新田氏、吉良氏なども同様で、足利尊氏(あしかがたかうじ)は本姓で呼ぶと源尊氏(みなもとのたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)は源義貞(みなもとのよしさだ)、吉良義央(きらよしひさ)=源義央(みなもとのよしひさ)となり、正式な呼称の用法により呼び方が変わるので注意が必要です。


室町時代後期~江戸時代・・・ 「氏」や「家」の重要な概念と同時に「個」が重要視されてきた時代
「家」の名による呼び方が大勢となったため、一般にいう「氏」に個人の名がつくときも「の」を入れなくなりました。
豊臣(とよとみ)は新たな「氏」とはいえ、「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と並ぶ「氏」であったのに「とよとみのひでよし」と「の」を入れて、呼ばないのはこのためです。
ちなみに、織田信長の正式な名は「織田弾正忠平朝臣信長」、徳川家康は時代により変わりますが「徳川内大臣源朝臣家康」や「徳川次郎三郎源朝臣家康」というのが正式な呼称です。
名称の呼び名には明確な制度の規定やルールがないのが面白く、またご注意を!
「氏(うぢ)」を「姓(せい)」と説明することがありますが、「姓(せい)」とは「氏」や「苗字」を総称する言葉であり、氏族の家格を表す名乗りである「姓(かばね)」と混同しやすいので注意が必要です。
さて現代。戸籍制度により名称・呼称のシステムは簡潔になりましたが、「名をつける」ことには、名付け親や命名者の思いや時代の流行があったり、それそれの思い入れがあって、いつの時代も様々な傾向が感じられます。
その思いを常に忘れず、その名に誇りを持って暮らしたい・・・と思う今日この頃です。



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