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安達盛長 あだちもりなが


No. 13

【安達盛長】 

あだちもりなが

Adachi Morinaga

源頼朝の信頼厚く、長く鎌倉幕府を支えた。頼朝と北条政子の間を取り持ったともいわれる。鎌倉殿の十三人の一人。


【別称】藤九郎

【改名】(出家後)蓮西(れんさい)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期 【生誕】保延元年1135年 【死没】正治2年1200年 【墓所】愛知県蒲郡市 長泉寺 【官位】右衛門尉 【幕府】鎌倉幕府

    十三人の合議制の宿老の一人

    上野奉行人 三河守護 【主君】源頼朝 頼家 【氏族】藤原北家魚名流安達氏

【父】藤原(小野田三郎)兼広

【兄弟】藤原遠兼(足立遠元の父)

【子】景盛 時長 源範頼室



■安達盛長の生い立ち


父は藤原北家魚名流の藤原(小野田三郎)兼広と「尊卑分脈」に記されている。

兄は藤原遠兼。その子が足立遠元(前章No.12で登場)で、遠元は年上だが甥にあたる。


名前の「安達」は、当初兄・藤原遠兼の所領である武蔵国足立郡(現在の東京都足立区は足立氏に由来する)にちなんで足立氏としていたが、晩年になり本貫地である陸奥国安達郡(現在の福島県安達郡)にちなみ「安達」の名を称した。




■安達盛長と源頼朝の関係

同じく鎌倉殿の十三人の一人である比企能員と源頼朝の乳母である比企尼の長女で、源頼朝の側室ともいわれる丹後内侍を妻とした縁により、伊豆配流(流罪)時代から長く源頼朝を支えた。


頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長といわれている。(曽我物語)


源頼朝の幕政の良き理解者で、多くの面での相談相手のような立場であり、生涯官職には就かなかったという。


屋敷は、鎌倉の長谷に現在もある甘縄神明神社(鎌倉最古の神社)の辺りといわれ、神社境内にはその石碑もある。『吾妻鏡』によると、盛長の屋敷には頼朝も頻繁に訪問し、苦労時代を共に過ごした最も親しみのある御家人であったことが想像できる。


正治元年1199年頼朝の死後、出家して蓮西(れんさい)と名乗る。

同年、二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政の計画に加わる。同年に三河国(みかわのくに)の守護となる。


正治2年1200年に死去。享年66。


鎌倉幕府と共に生きた生涯であった。





■鎌倉幕府十三人の合議制


NHK2022年の大河ドラマに決まった「鎌倉殿の十三人」は、 鎌倉幕府の二代将軍・頼家を支えた十三人の御家人の物語。

【鎌倉幕府十三人の合議制】とは?

初めての「武家政権」として源頼朝によって創始された鎌倉幕府だが、正治元年1199年初代将軍・源頼朝が急死する。その時長男の頼家は、未だ18才の若輩であった。


それまで将軍家の惣領として何不自由なく育てられた頼家には、有力な御家人をまとめ率いる力量などなかった。母の北条政子や祖父の時政、そして側近たちにとって、頼家のただ単に二代将軍という名の権力を持っての行動は、黙って見過ごすことができないほどだった。


北条時政と政子は、このままでは幕府組織の運営は成り立たないと見て、有力御家人十三人が集まり会議が開かれた。そして、幕府の政治(以下「幕政」とする)はこの十三人の御家人たちが合議制で運営することに決定された。表向きは若い頼家を補佐するということだが、実際は頼家の権力を取り上げることが目的であった。


頼家が二代将軍になってわずか3ヶ月後の事であった。


頼家は幕府の最高権力者ではなく、単なる幕府のシンボルとなってしまった。


ただ、この幕政において十三人全員で合議され事例はなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す制度で頼家を補完する機能を果たしていた、とする見解もある。


この幕政は、十三人の御家人の中から死亡者などの欠員が出て2年をもたずして解体され、その後鎌倉幕府も権力抗争の果てに崩壊し、源家の嫡流(本家の家筋)は断絶。その後は北条義時の嫡流が治めていく事となる。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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