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熊谷直実 くまがい なおざね


No.18

 

【熊谷直実】

くまがいなおざね 

Kumagai Naozane


桓武平氏直系の武将で、戦での功績をもって一大武将に名乗りをあげた坂東武士の雄。歌舞伎や能でも有名。


【別称・通称】幼名:弓矢丸/熊谷次郎直実/(出家後)蓮生(れんしょう・れんせい)

【官位】?

【生年】永治元年(1141年)

【没年】建永2年(1207年)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血筋】桓武平氏/熊谷氏

【在所・所領】武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)

【墓所】熊谷寺(ゆうこくじ・熊谷市)/光明寺(長岡京市)/高野山(和歌山県)

【由縁の場所】埼玉県熊谷/兵庫県福原


【家系・系譜】

父:熊谷直貞

子:直家、実景、直勝、家真



熊谷氏は、桓武平氏直系の平貞盛の孫・維時(これとき)六代の子孫と伝えられている。

父直貞の時代から武蔵国大里郡熊谷郷の領主となり、それ以降熊谷を名乗った。



■生涯について


直実は、幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光の養われたといわれる。

京都で平知盛に仕え、源頼朝の挙兵では平家軍の一員として戦ったが、その後、石橋山の戦いを契機に源頼朝の配下に入り御家人となった。

弓の名手でもある直実は、直情型の熱い武将で、数々の戦で功績をあげ一騎当千の強者と称された。


文治3年1187年8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。弓の名手であった直実は、これを不服とし拒否したため、所領の一部を没収されたこともあるという。また、養父の久下直光との所領争いでは、幕府に訴え出て頼朝の裁量を得ることになったが、「どうせ不利な裁定になるに決まっている」と怒って書類を叩きつけ、所領に帰る途中で髷を切って武士を捨てる決意をしたといわれている。




■ 有名な「人間五十年」の一節


源平の戦い「一の谷の合戦」で、17歳の若武者・平敦盛(たいらのあつもり)との一騎討ちの逸話は有名で、(『平家物語』「敦盛最期」の段)、結果敦盛を討ち取ったが、自らの息子と同じくらいの若武者の首を取らねばならないという、現実の葛藤を強く感じる戦であり、あまりの痛ましさに無常を感じたという。


この故事の物語は、能の演目『敦盛』や幸若舞の演曲『敦盛』といった演目で、現代にまで受け継がれている。


その中に有名な一節「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか」が登場する。この一節が特別に有名なのは、織田信長が好んで謡い舞ったからで、『信長公記』にも桶狭間の戦い直前に舞ったという記録されている。


「人間五十年」とは人間の寿命が50歳だということではなく、「下天=仏教における天界のひとつ」と合わせて、「天人の時間の流れと比べれば、人の世の50年(一生)なんて一睡の夢程度でしかない」という意味である。



■ 武士を捨て、出家を決意


直実は、時を経るにつれ武士としての生き方に疑問を抱くようになり、家督を嫡子・直家に譲り、建久9年1198年に出家して法然の門徒となり法力房蓮生(ほうりきぼう れんせい)と称した。その後熊谷郷に戻り、現在の熊谷寺で念仏三昧の暮らしをしたといわれている。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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