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【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑳

2025年10月31日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

会員 安延 嶺央


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"異なる"ではなく"つながっていた"沖縄


 これまで19回にわたり、琉球と坂東武者の関係や、中世日本についてお話してきました。沖縄と言えば独自の文化、日本とは別の独立した国であったというイメージが強くあります。それは必ずしも誤りではないのですが、独自性の部分をやや強調しすぎている印象を持っています。

 

 そのようになったのにはいくつかの理由があります。まず、明治時代以降の沖縄学は沖縄県民の自己認識として研究されてきたことです。そのため、自分たちはヤマトとはどれほど違うのか、どのような独自の特徴を持っているのかが強調される方向に行きがちな性質を持っていました。

 

 また、前回お話ししたように、1609年薩摩藩による琉球侵攻以降、沖縄は厳しい支配を受け、明治維新後は強制的な同化政策、第二次世界大戦では全国で唯一の地上戦による甚大な被害、戦後は米軍による統治など、苦難の歴史となってしまいました。その状況下では、本土政府やヤマトとは別個の、自分たちのアイデンティティを求めたいという県民感情が芽生えてくるのもごく自然なことです。また、心ある本土の人は、沖縄の辿った道に思いをいたし、沖縄を大切にしたい、尊重したいと思うのもまた、当然の思いです。

 

 一方、明るい話題としては、日本では唯一の亜熱帯気候地域として国内随一の南国リゾート地となり、多くの観光客が沖縄を訪れてその自然、文化、歴史遺産などを楽しんできたことがあります。沖縄ブームとなり、琉球音階の音楽が広く全国で親しまれ、南国的でエキゾチックな明るさを振りまく芸能人が沖縄から多く誕生したのも特筆すべきことです。この状況では、沖縄と日本本土の差異を強調する方が、異国情緒漂う観光地や文化の発信地として沖縄県以外の方からは好まれ、沖縄には経済的利益がもたらされることになります。

 

 つまり、近現代には様々な面から、沖縄とヤマトを別個のものとして扱う方向に力が働いていたのです。しかしそれは最大限に長く見て416年、明治維新以降なら157年、戦後であれば80年、沖縄の本土復帰からは53年のことであって、800年前の歴史に遡って適用するのは疑問です。近現代の歴史を踏まえた沖縄県民の感覚を尊重することと、800年前の歴史の事実を探ることは全く別次元の話です。



琉球文化は坂東の記憶を映している


 薩摩藩による統治下で沖縄ではヤマト風の風習を禁じられ、異国風を求められ、その中で現代に通じる独自の琉球文化が形作られていきました。しかし逆に言えばそれ以前はどうだったのでしょうか?当時の列島を掌握していた関東の武士や九州沿海部の海の民、商人などが出入りする海上の要衝で、その中で文化や社会の枠組みを作っていったのは坂東武者たちだったのではないでしょうか。現代でも、沖縄の風習や信仰にその痕跡がみられるように思います。

 

 沖縄で広く信じられ、北東の海の彼方にある理想郷・他界概念の「ニライ・カナイ」は、「子の方(星)・七夜(星)」つまり「北極星・北斗七星」で、坂東武者の妙見信仰、鹿島信仰、弥勒信仰などが習合したものでしょう。

 

 琉球開闢神話に登場する琉球人の祖先神「アマミキヨ・シネリキヨ」は、「アマミキヨ(女神)」が「粟蒔く人」、「シネリキヨ(男神)」が「稲刈る人」ではないでしょうか。これも、「奄美から来た人」や、南洋のアマン神、「アーマン(沖縄方言でオカヤドカリのこと)」との繋がりが言われていますが、関東平野的な農耕の風習から解けるように思います。「アマミキヨ・シネリキヨ」の「キヨ」は沖縄方言で「人」です。そして古語で「稲」は「シネ」です。となると「シネリキヨ」は「稲刈り人」ですが、現代の大嘗祭でもそうであるように、古来豊穣を祈る農耕祭祀の中で稲と同格の扱いを受けてきたのが「粟」です。となると、「ア・マミ・キヨ」は「粟蒔き人」となります。『万葉集』の歌でも、稲は刈るもの、粟は蒔くものですし、昔は稲刈りは男性の仕事、粟蒔きは女性の仕事とされていたので、ここも「アマミキヨ・シネリキヨ」と合致しています



琉球の「ようどれ」と浄土の記憶


 琉球国王のお墓「ようどれ(琉球発音:ゆーどぅり)」は沖縄学の大家とされる伊波普猷以来「夕凪」の意とされ、流行した『島唄』の歌詞にもなっていますが、これは「浄土入り」ではないかと思います。実際にそのお墓に行ってみると、「夕凪」という素朴な自然現象とはかけ離れた宗教的な意匠・装飾が施されています。やはりこれは、「浄土入り」であって、薩摩藩の浄土宗禁制により原義が喪われ、用語のみが残ったものと考えるのが自然です。



栃木と琉球 ― 道が結んだ北と南


 本州の側を見れば、現代は東京一極集中となっており、例えば栃木県から関西へ行くとすると東京を経由して行くこととなりますが、これは江戸を中心に街道が整備された江戸時代以降の常識なのです。それ以前、琉球が交易で栄えた時代までは、東山道により栃木県、下野国こそが上野や信州、美濃を経由して瀬田の唐橋つまり現在の滋賀県大津市⋯と、西国と直結していたのです。

 

 また、日本の古都と言えば京都奈良のイメージが強いですが、12世紀末以降、そこで政権を握っていたのは関東に縁の深い武士たちなのです。琉球と栃木県はいずれも列島の交通の要衝であり、当時の列島を坂東武者が掌握していたことを考えれば、沖縄県と栃木県に繋がりがあるのはごく自然なことではないでしょうか。

 

栃木県と沖縄県の縁について、20回にもわたり、拙いながら書いてきました。これまで読んでいただいた方には心より感謝申し上げます。また、今後栃木県はじめ関東の皆様に、沖縄をこれまでより少し身近に感じていただき、文化を楽しみ、時には観光にお越しいただければ大変素晴らしいことだと思います。今後もnoteでは沖縄県の歴史文化について発信を続けて参りますので、ご興味のある方は引き続きよろしくお願いいたします。



筆者プロフィール

安延 嶺央 (やすのぶ れお)


関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。


▼ 「note」 でも栃木県と沖縄県をテーマにした記事を掲載中です






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