小山義政 おやま よしまさ
No. 65
【小山義政】
おやま よしまさ
Oyama Yoshimasa
大きな勢力で鎌倉公方を支え、小山氏全盛の時代を築いたが、時代に翻弄され、鎌倉幕府と対立、不運な運命を辿った。
【別名】小四郎(通称)、永賢(法名)
【官位】従五位下、下野守、贈正五位
【生年】不詳
【没年】永徳2年(1382年)4月13日
【時代】南北朝時代
【幕府】室町幕府 下野守護
【氏族・血族】藤原北家秀郷流 小山氏
【在所・所領】下野国小山
【主君】足利尊氏→義詮→義満
【家系・系譜】
父母:父:小山氏政 母:?
妻:芳姫(宇都宮氏)
子:若犬丸、逆井常宗(逆井城主)
■小山氏全盛の時代を築く
小山義政は、乱を起こした新田義宗の討伐に参加するなど、室町幕府創設の功労者であり、下野国守護に任ぜられるなど、下野有数の氏族・小山氏の全盛期を築いた武将であった。
下野守護として活動し、有力上杉氏を除けば、坂東で唯一度々幕府に馬を献上している。
■小山義政の乱
小山氏は、勢力、領域が拡大するに従い、宇都宮氏との対立を深めていった。
康暦2年/天授6年1380年5月、宇都宮十一代当主 宇都宮基綱と戦いこれを討った。
鎌倉公方足利氏満は、小山氏の勢力が拡大し、武蔵、下総におよぶことを恐れ、大軍をもって小山を攻めた。同年9月義政は降伏。
永徳1年/弘和1年1381年2月、義政は再度挙兵した。小山の鷲城に陣を張り、鎌倉公方軍と約半年におよぶ戦いを展開。
永徳1年/弘和1年1381年12月、義政は家督を子の若犬丸にゆずり、出家し永賢と称して降参した。
永徳2年/弘和2年1382年3月、義政は三度目の挙兵をし、糟尾山中(粕尾城)に籠城。
同年4月13日、義政は、出城である櫃沢城にて最後の血戦を試みて、思川のさらなる上流にある赤石河原というところで自決したといわれる。
息子の若犬丸は、山中を踏破して逃れ、陸奥国三春の田村氏、常陸の小田氏をはじめ各地の南朝方勢力とともに以後10年に渡って反鎌倉府との戦を展開したが、最後は会津に追い詰められ自害したという。
この「小山義政の乱」の終息によって、鎌倉公方の関東支配はようやく安定したといえる。
義政の起こした謀叛は、皇室やその内部の対立ではない坂東の武士の、日本史上初めての、大規模戦いであったとされている。
これにより十一代続いた小山氏の正系は途絶え、泰朝が庶家の結城氏から入嗣したことにより存続することとなる。
■悲劇の最期を遂げた姫君「芳姫(よしひめ)」
芳姫(よしひめ):小山義政の正室
芳姫は、小山氏の乱の伝説の中に登場している。
小山義政の正室についての唯一確かな史料であるとされるのは、埼玉県北葛飾郡鷲宮の鷲宮神社の1372年頃の再興時の棟札で、夫と共に寄進を行い、藤原氏女と記載されている。
【芳姫伝説】
夫・義政の鎌倉公方軍との三度目の戦いにおいて、小山氏の粕尾城(現鹿沼市)に籠城した際、芳姫は夫を追って粕尾城へ向かう途中、現在の栃木市星野に至った。
そこで一晩の宿を提供し、なおかつ道案内を申し出た村人に、持っていた乾飯の袋を黄金の袋に間違えられ、こっそりと殺されてしまったという。
別説としては、実際には芳姫は夫や子供とともに粕尾城に籠っており、落城後に落ちのびる途中で夫や子供とはぐれて事件に巻き込まれた、というやや不自然な伝承もある。
殺害されたとする地点は、小山城と粕尾城を結ぶ30km程の街道のうち粕尾城まで約8kmの地点、古道の大越路峠、現在は林道になっている。ここには、江戸時代に入って村人が供養のため墓を建てたという。
後年、栃木市星野の大応寺には「小山芳姫の御堂」が建てられ、碑に上記の伝説が記載されている。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
[ 藤原秀郷をヒーローにする会 関連ページ ]
▼坂東武士図鑑キャラクター 一覧へ戻る
Comments