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氏家経朝 うじいえ つねとも 


No. 36


【氏家経朝】

うじいえ つねとも

Ujiie Tsunemoto


藤原氏の名門宇都宮氏の子孫で、宇都宮の近域の氏家地域に住み着き、そこを治めながら鎌倉幕府を支えた。


【別称・通称】不明

【官位】美濃守

【生年】不詳(1200年代前半頃)

【没年】不詳

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血族】藤原北家宇都宮流氏家氏

【在所・所領】下野国氏家

【墓所】不明

【由縁の場所】栃木県氏家市 勝山城 塩谷町佐貫観音

【家系・系譜】父:氏家公信




■氏家氏三代当主


初代・公頼、二代公信、三代経朝と続いた氏家氏第三代当主。

栃木県塩谷郡氏家町の勝山城を本拠とした中世豪族。


実力者であったと言われているが、残っている資料なども少なく、主に伝承伝聞や他家や他の武将の記述によるところが多く、実にミステリアスな存在でもある。




■氏家氏と宇都宮氏


氏家氏は、藤原北家宇都宮氏流といわれ、宇都宮朝綱(ともつな)の子公頼が下野国芳賀郡氏家郷を領し、氏家を名乗ったことに始まるといわれる。「宇都宮系図」によれば、公頼の弟にあたる人物として小田氏の祖となる八田知家がおり、氏家氏は早い段階に宇都宮氏から分かれた家であるといわれる。


他の説として、紀氏を出自とする氏家公幹(長元元年〜永長元年(1028〜1096年)が創始した氏家氏を公頼が継いだとする説、塩谷町佐貫観音の銅版曼陀羅銘に〈右兵衛尉橘公頼……建保五年〉とあるので、元々は橘姓であるという説など、その始まりには諸説多々ある。


ただ、始祖の公頼は、氏家24ヵ郷を領して氏家氏を名のり、朝綱の父宗綱の女を妻としたといわれるなど、宇都宮氏と早くから姻戚・被官関係を結んでいたようである。


源氏の記録書である「吾妻鏡」には公頼のほか公信・経朝の三代の名がみえ、しばしば将軍の供奉人を務め、流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)は『抜群の射芸』といわれた。

鎌倉時代後期の記録に近習(きんじゅ・きんじゅう)(註「近習」鎌倉幕府において将軍にそば仕えする人)の記述があり、建保3年1215年の御格子番六に氏家経朝の名が記載されている。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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