八田知家 はったともいえ
No.19
【八田知家】
はったともいえ
Hatta Tomoie
名門宇都宮氏の流れで、早くから源氏挙兵を支えた。後に鎌倉公方を支える関東八屋形の一つ小田氏の始祖。鎌倉殿の十三人の一人。
【別称・通称】八田四郎 筑後入道尊念
【官位】従五位下 右衛門尉 筑前守
【生年】康治元年 1142年
【没年】建保6年 1218年
【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期
【氏族・血筋】藤原北家宇都宮氏〜小田氏
【在所・所領】常陸国小田
【墓所】不明
【由縁の場所】つくば市小田城趾
【家系・系譜】
父:八田宗綱
兄弟:宇都宮朝綱、寒川尼(小山政光の室)
子:小田知重、伊自良有知、茂木知基 その他
藤原北家宇都宮氏二代当主の八田(宇都宮)宗綱の四男。
系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局という説もある。
■八田知家の概要
鎌倉幕府の十三人合議制の宿老の一人。
関東八屋形の一つに数えられる小田氏の始祖であり小田城の築城者。
保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。
治承4年1180年、源頼朝が挙兵すると、姉(?)の寒河尼とその夫の小山政光との関係から、早い時期に参じ、下野国茂木郡地頭職に従いていたという。
野木宮合戦に従軍。
元暦元年1184年、源範頼率いる平氏追討軍に従軍。
文治元年1185年、前年に源義経が京において無断任官で頼朝の怒りを買った際には知家も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と兄弟である小山朝政と共に叱責されている。
文治5年1189年、奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰める功績を上げた。
建久4年1193年、曾我兄弟の仇討ちをきっかけに北条時政と謀り、従兄弟である常陸大掾氏の多気義幹を罠にはめて領地を没収。自分の本拠地を下野から常陸に移し守護に補任された。
■源頼朝没後
建久10年1199年、頼朝が没し、後を継いだ二代将軍源頼家の専制を抑えるために結成された十三人合議制の宿老の一人となるなど、長く鎌倉幕府を支えた。
鎌倉の知家の邸宅が、京都からの使者の宿所にしばしば充てられていることから、知家は京都との繋がりも深く、京都の文化にも通じていたと思われる。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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