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宇都宮広綱 うつのみ やひろつな 


No. 55


【宇都宮広綱】

うつのみやひろつな 

Utsunomiya Hirotsuna


宇都宮氏第二十一代当主。時代の波の中で衰退の憂き目に遭いながらも宇都宮氏を存続させ、次の国綱に繋いだ。


【別称・通称】伊勢寿丸/弥三郎

【官位】従四位下/下野守

【生年】天文14年(1545年)

【没年】天正4年(1576年)

【時代】戦国時代〜安土桃山時代

【氏族・血族】藤原北家道兼流/下野宇都宮氏

【在所・所領】下野国宇都宮

【墓所】尾羽寺地蔵院(益子町)

【由縁の場所】宇都宮市/宇都宮城址


【家系・系譜】

父:宇都宮尚綱  

母:結城政朝娘

妻:南呂院(佐竹氏)

子:国綱、結城朝勝、芳賀高武



悲運なのか、頑張ったのか?流転の御曹司。

下克上激しい時代の中で奮闘した宇都宮氏第二十一代当主。



宇都宮氏の滅亡の危機


宇都宮広綱と宇都宮城は、この時代まさに波乱の一時期を迎えていた。

天文18年1549年父・宇都宮尚綱が喜連川五月女坂における那須氏との戦いで敗死すると、家臣の壬生綱房が野心を持って宇都宮城を乗っ取ってしまう。壬生綱房は、芳賀高経の子芳賀高照を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、塩谷氏など宇都宮氏の重臣を従え宇都宮広綱に敵対、下野国(現・栃木県)の各地に侵攻し制圧を始めた。その結果、宇都宮氏は衰退著しく、滅亡の危機となった。


当時、広綱は5歳という幼少であったため、家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城から落ち延び、真岡城にて高定の補佐を受けて育つ。




■宇都宮城への帰還


2年後の天文20年1551年、芳賀高定が謀略を駆使して、父のかたきである那須高資を殺害。

弘治元年1555年には、芳賀高定が反抗的な家臣芳賀高照を真岡城へ誘い出して暗殺。また、宇都宮城を占領していた壬生綱房が急死、綱房の嫡子の壬生綱雄が新たに宇都宮城主になり、加えて、祖母井城、八ツ木城などが落とされた。その後、芳賀高定の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、常陸(現・茨城県)の佐竹義昭の次女を妻に迎え同盟を成立。佐竹氏の助成を得て宇都宮城を占拠していた壬生綱雄らを撃ち、広綱は、ようやく宇都宮城へ帰還する。父宇都宮尚綱の死より8年が経っていた。




■宇都宮城をめぐる戦い


永禄元年1558年には越後上杉勢が下野に侵攻してきたが、家臣団の奮闘によって撃退した。

武田信玄、北条氏政による甲相同盟の締結によって、下野南部が北条、武田の二大勢力によって脅かされた状況の隙間を縫って、重臣の皆川俊宗が宇都宮城乗っ取りを計画。


元亀3年1572年上杉謙信との外交を任されていた宇都宮氏の筆頭重臣・岡本宗慶が皆川俊宗によって暗殺され、宇都宮城は皆川氏によって占拠された。


それから約1年間の間は、皆川俊宗が宇都宮氏の主導権を握っており、俊宗は徐々に後北条氏寄りの立場を取るようになる。このために一時的だが、宇都宮氏は北条氏に屈した形となった。


上杉謙信が関東に進出してきた時はこれと結び、謙信に背いた佐野昌綱の説得と助命嘆願なども行っている。 謙信が北条氏と和した後は謙信と手を切り、佐竹氏と連携しながらも独立を維持した。





■広綱の最後


広綱は生来病弱であり、元亀3年には花押も押せないほどにまで病状が悪化し、晩年は病床に伏していたといわれるが、その治世は比較的安定していたともいわれている。

天正4年1576年病のため死去。享年 32歳。

その死が秘匿されていたという説もあり実際の死亡年はよくわかっていない。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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