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結城秀康 ゆうき ひでやす


No. 60


【結城秀康】 ゆうき ひでやす

Yuki Hideyasu



家康の息子でありながら徳川の後継になれず、その結果豊臣に仕えたが若くして病死した不運の結城氏第十八代当主。



【別称・通称】松平於義丸(於義伊)〜羽柴秀康〜結城秀康〜松平秀康

【官位】従五位下侍従/三河守/従四位下 正三位 贈正二位

【没年】慶長1年(1607年)

【没年】慶長21年(1607年)

【時代】戦国時代〜江戸時代

【氏族・血族】徳川氏/羽柴氏/結城氏/越前松平氏(福井藩主)

【在所・所領】下総結城藩/越前北ノ庄藩

【墓所】東京海晏寺/福井大安寺/高野山奥の院

【由縁の場所】結城城址/福井城


【家系・系譜】

父:徳川家康  

母:長勝院(養子)豊臣秀吉 結城晴朝

兄弟:松平信康、亀姫、永見貞愛、督姫、徳川秀忠 他

妻:結城晴朝養女鶴子 他

子:忠直、忠昌、喜佐姫、直政、吉松、直基 他



表舞台にはあまり登場しないが、名門に生まれたがゆえの波乱の人生、なかなかに興味深い人物。

その人生恵まれず若死した。




■生涯について


徳川家康の次男。

双子であった。弟は、永見貞愛(ながみ さだちか)。母親は側室・於万の方(長勝院)といわれている。


幼名は於義丸(おぎまる)。 名前の由来はナマズであり、理由は顔がナマズに似ていたためとされる。


家康は於義丸のことを嫌っていたらしく、実子であってもなかなか会おうとはしなかった。

その理由は諸説あり、前記の通り容貌が醜かったため、当時は忌み嫌われた双子だったため、家康自身は嫌っていなかったが正室の嫉妬を恐れたため、などという説がある。

この事を不憫に思った長男(異母兄)である松平信康が家康を説得し、3歳で初めて家康と対面した。



■父 家康との関係


家康は於義丸のことを嫌っていたらしく、実子であってもなかなか会おうとはしなかった。 理由は諸説あり、前記の通り容貌が醜かったため、当時は忌み嫌われた双子だったため、家康自身は嫌っていなかったが正室の嫉妬を恐れたため、などという説がある。

この事を不憫に思った長男(異母兄)である松平信康が家康を説得し、3歳で初めて家康と対面した。

その兄信康は、天正7年(1579年)、武田勝頼との内通の疑いがかけられ切腹させられた。

本来ならば、序列的に次男である於義丸(秀康)が徳川の後継者になるはずであったが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、父・家康が、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との和議の条件として於義丸(秀康)を秀吉に養子に出した。元服した於義丸は、秀吉と家康から一字ずつもらい「羽柴秀康」と名乗る。 この名「秀康」をこの後も名乗ることになる。

■「秀康」となってからの活躍


秀吉の子として武勇で名を馳せ、豊臣家の繁栄に貢献したが、天正17年(1589年)秀吉に実子・鶴松が誕生すると、秀吉は後継者を鶴松に指名。秀康は下総の結城晴朝の下に送り出され、彼の姪と婚姻し結城領11万1000石を継いで結城藩主となった。

秀吉の死後、家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。

このとき家康によって、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。家康が伊達政宗にあてた手紙には、秀康と相談して上杉に備えるよう依頼していることから、家康は秀康の武将としての器量を評価しており、父子がそれぞれの立場をわきまえて生涯認めあっていたようだ。

関ヶ原の戦い後、越前北庄に移封68万石に加増された。 慶長9年(1604年)に本姓の松平氏に戻り、松平秀康を名乗ることができたといわれている。

その後、権中納言に昇任、さらに伏見城番を任されるなど、ようやく長年の苦労が報われたかとおもわれたが、慶長12年3月に体調を崩し、城番を辞退し、翌4月に死去した。 享年34歳。




■人物像について


本人は体躯に恵まれ、武勇に優れた一流の戦さ人であったといわれる。

行く手を阻んだ関守を成敗しようとしたり、許可無く馬を並走させた武士を無礼討ちにしたりと、気位の高さや気性の荒いところもあった。

弟・秀忠の将軍就任の祝いの席では、同じ官位の上杉景勝と「景勝殿のほうが官位が長い」という理由で上座の譲り合いになり、かつての敵であろうと謙譲の心を優先する器の大きさも持ち合わせていた。 因みに、この場は秀忠の指示で秀康が上座に着くことで落ち着いた。

双子の弟・永見貞愛(ながみ さだちか)は、家康から実子と認められず、表向きは夭折したことにして母・於万の実家である永見家に引き取られ、後に知立神社(三河)の神職を継いだとされる。 慶長9年(1604年)に死去。享年31歳、早世だった秀康よりも3年も早くに他界している。


※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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