

【会員寄稿コラム】ここから古への想い《1》
2026年1月25日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 多気城碑 「多気山城から見る名門宇都宮氏の終焉」 「これで北条が進軍して来ても、いち早く備えができよう」 1585年(天正13)小山秀綱を蹴散らし、怒涛の北征を続ける小田原北条氏。ビビる宇都宮国綱は本城を宇都宮からここ多気山に移します。確か前方は見通しはきくが……西の鹿沼方面はみえない? 鳥瞰図(余呉さんのHPより) 道しるべ(多気山頂) 1588年(天正16)北条氏に降った皆川氏に西方城を、奪われた国綱、佐竹の援軍を得て皆川氏の出城諏訪山城に襲いかかる。 圧倒的な兵力で皆川勢を攻め続け諏訪山城、真名子城、富張城(神楽岡)、深沢城(布袋が丘)へと押しまくる。吹上城を落とし残るは皆川本城、しかし、皆川軍の後詰め壬生義雄に手薄の多気山城を狙われ、急遽無念の退却… 鹿沼の城郭 1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐で宇都宮18万石を安堵された国綱だったが、跡継ぎ(男子)がいない…、秀吉から子飼い重臣、浅野長政(秀吉の正妻、ねねの親族)の二男長重を養子にと勧められる。国綱


【会員寄稿コラム】藤原秀郷流を訪ねて《10》「古河城のその昔~下河辺行平と頼政神社」
2026年1月12日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 古河市渡良瀬川にかかる三国橋、南東の土手のにある「古河城跡」の石碑。行ってみると見渡す限りの土手と広い河川敷、遺構なんて見当たらない。 江戸時代の縄張り図を見ると、渡良瀬川東の沼地に突き出した舌状大地を利用した縦長の平城です。本丸には天守閣代わりの三重櫓もありましたが、明治時代に渡良瀬川河川工事でほぼ壊滅、後付けの石碑だけが……ところで中世以前の古河城の創健者は?下河辺行平とありました。 それと気になったのは、縄張り図にある頼政曲輪と頼政神社、そして左上の神社の現在地。頼政ってあの源頼政(源三位)、平安末期1180年(治承4)平家打倒の挙兵に以仁王と共に先陣をきり宇治川で平家軍と激突しましたが大軍の前に無念の敗戦、平等院で自刃してしまった摂津源氏の棟梁です。 下河辺行平と源頼政の関係は……。 下河辺氏は藤原秀郷流小山氏族、平安末期下河辺地区(下総領内、現在の茨城県古河市、五霞町、埼玉県加須市あたり)に土着した一族。行平の父行義は、当時下総国守をしていた源仲政


【会員寄稿コラム】藤原秀郷流を訪ねて《9》富士町を歩く~大貫越中守政宗と戦国佐野氏の終焉へ
2025年10月8日 栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 1584年(天正12)12月、野州唐沢山城では大晦日の挨拶のために登城した佐野家四天王の筆頭、大貫越中守政宗(定行,武重とも)に向かって。佐野家16代当主宗綱は「越中、明日、須花から名草へ攻め入ろうと思うのだが、其方はどう思う?」「正月元旦に合戦するのは大変嫌われていると聞いております。味方の守備を固めてこそ、敵の不意を突いて勝利するものです」大貫越中が静かに答えると宗綱は大変不機嫌になったという。 25才の若殿宗綱は血気盛ん。近年、足利長尾との要谷山城の戦い、免鳥町の戦いなどで苦戦が続き、焦りもあったのは当然のこと。しかしそれ以上に父、昌綱以来の重臣と意見が合わず若い近衆を重用し、彼らをだんだん疎ましく思って来たのではないか(武田勝頼など偉大な父の後を継いだ若殿のケースと似てるような)。 そして、お気に入りの若武者を引き連れ先頭に立って、いざ、須花へ…… 大将宗綱は討ち死にし、その他、田沼綱重(田沼家当主)、岩崎重久(宗綱弟、岩崎家養子)、福地慶久(椿田城主

