【水野先生コラム】皆川歴史研究会が発足します/その②
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- 6 日前
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2025年11月22日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
顧問 水野 拓昌
無名の武将・皆川広照 信長、家康も名を間違えた
「皆川歴史研究会」発足に合わせて、藤原秀郷の子孫で、ドラマチックな生涯を送った戦国武将・皆川広照の魅力を紹介していきます。
「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」の皆様は、皆川広照はご存じかと思いますが、世間一般には無名です。戦国マニアでも名も知らないという人はいます。名くらいは知っている程度の人もかなり多いと思います。とにかく地味です。
これは、広照が生きた時代も同様で、1581年(天正9)、広照は織田信長に名馬3頭を献上しましたが、『信長公記』は「蜷川山城守」と誤記。さらに数日後、信長が献上された馬を大変気に入っていると伝えた徳川家康の書状も、宛名が「蜷川山城守殿」となっています。広照と信長の間を取り持ったのは家康ですが、その家康自身が「皆川」(ミナガワ)の苗字を「蜷川」(ニナガワ)と読み違え、それが信長に間違って伝わったようです。
「いきなり、しようもないエピソードを出しやがって、最初にこれか。何が皆川広照の魅力を紹介する、だ。全く逆だ」とカンカンの方もいるでしょうが、まあ、お待ちください。信長も家康も名を知らなかった程度の坂東の「国衆」(小大名)が信長によしみを通じようとしたのです。これこそ、皆川広照の広い視野、先見性を示すものです。
広照が信長に貢馬した1581年は、信長が武田家を滅ぼした前年で、天下統一に向けて最終段階に入っていた時です。
広照は関東制圧をもくろむ小田原・北条氏の圧力に汲々としている段階ですが、しっかり中央の情勢に気を配っていたのです。もっとも、信長によしみを通じた翌年、本能寺の変が起き、信長は明智光秀に討たれてしまったわけですが……。
信長に名馬献上した「宇津宮貞林」とは?
なお、皆川氏の主君だった宇都宮氏も1580年(天正8)閏3月10日、信長に馬を贈って非常に喜ばれ、たくさんの返礼品を受けています。
信長に馬を贈ったのは、『信長公記』によると、「宇津宮貞林(ていりん)」という人物です。「宇津宮」は「宇都宮」で良いとして、当時の宇都宮氏当主は13歳の宇都宮国綱ですが、「貞林」または「ていりん」と読める法名を持っていたわけではありません。これは、宇都宮氏の家臣・庭林内膳亮(ていりん・ないぜんのすけ)です。全国に商圏を持つろうそく商人であり、宇都宮氏の家臣で、武将兼商人兼外交官といった人物です。
この頃、宇都宮氏の家中は家臣団の力が強く、広照は壬生義雄らとともに重臣として力を発揮しており、信長への貢馬は広照も関わっていた可能性はあります。「宇都宮氏も関東での力関係だけを気にしていてもしょうがない。中央で力を持つ信長との連携も図らなければならない」。この考えです。もっとも、その翌年には広照自らが信長に貢馬しており、宇都宮氏家臣内での孤立、面従腹背の状態だったかもしれませんが……。
◇「皆川歴史研究会」は12月22日に設立総会と記念講演会が開かれます。
詳細は、こちらのホームページをご参照ください。
(皆川歴史研究会)
下野新聞で『皆川歴史研究会』発足記事が掲載されました。








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