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【水野先生コラム】皆川歴史研究会が発足します/その③

2025年11月24日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

顧問 水野 拓昌



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家康六男・松平忠輝との愛憎


皆川広照は、現在の栃木市にあった皆川城、栃木城を拠点とした坂東武士ですが、徳川家康との関係は深く、家康六男・辰千代(松平忠輝)の養育を任されました。家老として成長後の忠輝も支えています。長年苦楽を共にした三河武士も多数いる中、家康はかなり広照を信頼し、厚遇していました。


家康が期待したのは広照の持つ坂東武士とのネットワークかもしれません。

豊臣秀吉の意向で関東に移った家康にとっての脅威は、宇都宮、佐竹ら関東に残る有力武将や、関東の背後で大きな所領を持つ奥州勢。彼らは敵か味方か。その動向を探る上で関東をよく知る広照の知見、情報収集力は重要だったはずです。そして、ゆくゆくは松平忠輝に北関東での重要なポジションを任せるつもりで、広照に預けたのかもしれません。これは勝手な想像ですが。


古文書によると、家康は出生直後の忠輝を捨てようとしたとか、広照が忠輝を7歳まで育て、家康に対面させたとか、家康は長男・信康に似た面構えを嫌ったとか、いろいろな話がありますが、ここらへんのストーリーは、書き手の筆が自由に走ったといったところでしょうか。


忠輝は、1599年(慶長4)に武蔵・深谷1万石、1602年(慶長7)に下総・佐倉5万石、1603年(慶長8)に信濃・川中島14万石と国替えを重ね、1610年(慶長15)に越後・高田藩30万石の加増があり、計45万石の大名に成長しました。史料によっては75万石とか、65万石とか言われる場合もあります。

この間、広照は信濃国内で飯山城(長野県飯山市)4万石を与えられ、栃木の旧領と合わせて7万5000石を得ました。



野心家・伊達政宗、大久保長安を警戒?


ところが、1609年(慶長14)10月、皆川広照、隆庸(たかつね)父子は改易の憂き目に遭います。所領没収で浪人となってしまったのです。松平忠輝は日頃から粗暴な振る舞いが目立ち、広照はたびたび諫めていたといいます。同年9月、広照ら有力家臣が駿府に赴き、家康に訴えました。しかし、忠輝は逆に、家臣たちが藩政を牛耳っていると反論。広照に家老失格の厳しい処分が下されたのです。ただ、真相は家臣内の深刻な対立が影響したという見方もできます。


広照は忠輝の周りに関わる野心家たちを警戒し、忠輝に何らかの忠告をして、逆に不興を買った……と、個人的には推測します。忠輝の妻・五郎八(いろは)姫の父である伊達政宗や、幕府の奉行職を務めながら忠輝の家老でもあった大久保長安といった人物です。それぞれ、軍事力、財力に富み、伊達政宗はヨーロッパに使節を送り、大久保長安は「天下の総代官」と呼ばれて隠然たる権力を持っていました。

大久保長安死後、幕府転覆を企てた連判状が出てきたという話もありますが、その現物はありません。「若く、思慮浅い忠輝が彼らに利用される」。広照は危惧を抱いたのではないでしょうか。これも勝手な想像ですが……。


皆川氏復活のきっかけは家康が豊臣家を滅ぼした大坂の陣。広照の嫡男・隆庸ら皆川勢は井伊直孝の軍に属して戦い、大坂夏の陣(1615年)では、崩れかけた井伊勢の中で隆庸は一歩も退かず踏ん張り、最終的な勝利に貢献。隆庸はじめ皆川勢は敵の大将首を取る戦功を挙げます。

その8年後、1623年(元和9)、広照、隆庸はようやく復活。広照の失脚は62歳、復活は76歳です。

一方、皮肉なことに松平忠輝は大坂夏の陣での遅参など失態があり、1616年(元和2)に改易。その後67年間、大名として復活できないまま生涯を終えました。



◇「皆川歴史研究会」は12月22日に設立総会と記念講演会が開かれます。

詳細は、こちらのホームページをご参照ください。

(皆川歴史研究会)

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