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【会員寄稿コラム】東京・多摩に残る秀郷の痕跡①(府中市/高安寺・秀郷稲荷大明神)(羽村市/武蔵阿蘇神社)

更新日:1 日前

2025年12月25日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

会員 戸室 直隆




藤原秀郷をヒーローにする会の戸室と申します。戸室は下野佐野氏の庶流、藤原秀郷公の末裔の一人となります。秀郷の活躍の痕跡は栃木県だけでなく、東日本の様々な場所にあります。その中でも今回は、私の地元である東京・多摩地域に残る藤原秀郷の痕跡を6箇所紹介していきたいと思います。アクセスが良い所も多いので、多摩地域にいらっしゃる機会がありましたらぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?



高安寺・秀郷稲荷大明神(府中市)




高安寺は府中市にある寺院で、JR南武線・京王線の分倍河原駅から徒歩7分くらいの場所にあります。敷地内には、かつて藤原秀郷が居住した館が存在したと伝わっている場所に秀郷稲荷大明神があります。なぜ今の栃木県に当たる下野国で活躍していた秀郷の館が、下野国から遠く離れたこの地にあったとされるのでしょうか?


秀郷は平将門討伐の功績で下野掾から下野国司に昇格した他にもう一つ、武蔵国司にも任命されています。その国司になった折に、武蔵国の国府であった府中の地に館を構えたと考えられます。しかし、今度は下野と武蔵を行き来するのは大変ではなかったの?という疑問が浮かびます。


実はこの当時、東山道武蔵路という大きな道路が下野国足利と武蔵国の国府である府中や、武蔵国分寺と直接結ばれていました。道幅は12m、現代で言えば、歩道付きの2車線道路に相当する広さがあったとされ、当時では正に国の威厳を示した大動脈に相応しい作りでした。武蔵国が東山道に属していた際は上野国からこの武蔵路を通っていったん武蔵国を経由し、それから下野国に向かっていたとされます。現在の府中市内だと分倍河原駅の西側を通っていたと考えられており、そうだとすると秀郷の館跡のすぐ近くに通っていたこととなります。


ただ、上野国から一度武蔵国を経由して下野国に戻るというのは非効率ということで、771年(宝亀2年)に武蔵国が東山道から東海道に移管となります。これで官吏は上野国から下野国に直接行けるようになりましたが、役目を終えた東山道武蔵路も官道から支道に格下げになりました。しかし、その後も沿線に「悲田処」と呼ばれる旅行者の一時救護所・宿泊所が833年(天長10年)に設置され、それから100年近く経った921年(延喜21年)でも運営が継続されていることが延喜式という資料で確認できるので、東山道武蔵路は秀郷の生きた10世紀頃にもまだ使用されていただろうと考えられます。12mもの道幅の道路がいきなり使用できなくなるのは不自然ですから、そのままの状態でもかなり長い期間使用できたのでしょう。


ところが鎌倉幕府による武家政権の時代となると、鎌倉への街道である鎌倉七道が整備されます。上野国府前橋への鎌倉上道が東山道武蔵路と一部並行する形で整備されたものの、下野国府栃木方面を含む残りの区間は、11世紀末頃にはさすがに管理が行き届かなくなり、廃道となったと推測されます。


一方秀郷の館は、時代が下ると「市川山見性寺」という寺院に改修されます。鎌倉時代末期に幕府の力が弱まると、後醍醐天皇の倒幕要請に応じた新田義貞が「分倍河原の戦い」で拠点を構えたため、戦場となった見性寺は武蔵国分寺などと共に荒廃してしまいました。そこから時代が下って室町時代になると、足利尊氏が見性寺の跡地に寺院を再建し、尊氏の旧名である高氏から高安寺と名付けられました。ちなみに足利尊氏の足利氏は源姓足利氏とも言い、2代目当主の足利義兼がもう一つの足利氏である秀郷流の藤姓足利氏と争ったり、同じく秀郷流の奥州藤原氏の残党を追討したりしていました。秀郷の館跡に秀郷流と争った源姓足利氏が寺院を再興するとは、不思議な因果を感じますね。


高安寺・秀郷稲荷大明神

住所:〒183-0021 東京都府中市片町2-4-1

アクセス:JR南武線・京王線 分倍河原駅より徒歩7分




武蔵阿蘇神社(羽村市)



阿蘇神社はその名の通り、阿蘇神として知られる健磐竜命を祀った神社で、創建は601年(推古天皇9年)、村の最良の地に築いたとされています。平将門が933年(承平3年)に武運長久を祈願して社殿を造営し、その平将門が藤原秀郷に討伐されると、将門の霊を鎮めるために940年(天慶3年)、秀郷によりに改めて社殿が造成されたと伝わっています。おそらくこれは、将門の造営した社殿が将門の乱の戦で破壊されてしまったと推測されます。秀郷は数々の神社で戦勝祈願の言い伝えが残ることから大変信心深かったと思われ、そのこともあって改めて社殿を造営したというのもあるのではないかと思われます。更に社殿の隣に「椎の木」があるのですが、これは秀郷自身が手植えをしたとされています。


この椎の木、正確にはスダジイですが、樹高18m、幹周り6.2mととてつもなく巨大で、樹皮はゴツゴツとして傷だらけ、幹内部の空洞も目立つなど、一目見ただけで相当な年月が経っていると分かります。1931(昭和6年)1月29日に東京府の天然記念物に指定されており、この指定だけで90年以上経っています。椎の苗木は3月から4月、もしくは9月から10月に植えるのが一般的だそうなので、秀郷も940年の春か秋のどちらか、平将門討伐後に植えたと推測出来ます。


秀郷が自身の手で植えたとされる「椎の木(スダジイ)」
秀郷が自身の手で植えたとされる「椎の木(スダジイ)」

その後の阿蘇神社はというと、1516年(永正13年)に後北条氏、1536年(天文5年)に武蔵七党の一派で平将門の末裔を称する地元の豪族三田氏の一員、三田掃部助定に社殿を寄進されるなどして管理され、江戸幕府の成立後は、初代の家康から14代の家茂に至るまで、江戸時代を通して幕府から何度も社殿や御朱印地の寄進を受けていたようです。1859年(安政6年)には大規模な洪水被害を受け、社殿、神主の屋敷や鳥居まで流失してしまったそうですが、武蔵と下総に1860年(萬延元年)に家茂の御朱印地寄進を受けて復活しています。


こうして数々の有力者から庇護を受けながら、1400年以上経った現代に至るまで存続しています。なお隣には、後北条氏の祈願寺だった吉祥寺という寺があったそうですが、江戸時代に衰退して無住となった後、火災で焼失して廃寺となり、現在は墓地のみ残っているとのことです。


武蔵阿蘇神社

住所:〒205-0016 東京都羽村市羽加美4-6-7

御祭神:健磐竜命、阿蘇都媛命、速瓶玉命、外九柱

アクセス:JR青梅線 羽村駅・小作駅より徒歩20分



 多摩地域の秀郷の痕跡はまだまだあるのですが、長くなってしまったので、一旦ここで区切り、続きは次回という事にしたいと思います。


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