top of page

【会員寄稿コラム】東京・多摩に残る秀郷の痕跡② (あきる野市/阿伎留神社・二宮神社)

更新日:3 日前

2025年12月26日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

会員 戸室 直隆




藤原秀郷をヒーローにする会の戸室と申します。戸室は下野佐野氏の庶流、藤原秀郷公の末裔の一人となります。今回は前回に引き続き、私の地元である東京・多摩地域に残る藤原秀郷の痕跡を紹介していきたいと思います。


阿伎留神社(あきる野市)



あきる野市の名称の由来の一つにもなっている由緒正しい神社です。創立年は不詳ですが、藤原秀郷が平将門討伐の戦勝祈願に訪れ、京の大原野大明神の土を祀ったと言われています。年代は伝わっていませんが、武蔵阿蘇神社や勝峰山の言い伝えも考えると、こちらの祈願も天慶年間の940年前後の事と思われます。その後も武将の信仰を集め、源頼朝、足利尊氏、後北条氏、徳川家康など、蒼々たる武将が社領の寄進したと伝わっています。


樹木に覆われていて境内からは見えませんが、南側には秋川が流れており、武蔵阿蘇神社と同じような立地であることから、こちらも村内の最良とされる地に築いたのかもしれませんね。


阿伎留神社

住所:〒190-0164 東京都あきる野市五日市1081

御祭神:大物主神、味耜高彦根神、建夷鳥神、天児屋根命

アクセス:JR五日市線 武蔵五日市駅より徒歩15分




二宮神社(あきる野市)



かつては二宮大明神という名称で、明治3年に現在の二宮神社に改称されています。創立年は不詳ですが、藤原秀郷が平将門討伐の戦勝祈願に訪れ、社殿を寄進したとされています。年代は伝わっていませんが、武蔵阿蘇神社や勝峰山の言い伝えも考えると、こちらの祈願も天慶年間の940年前後の事と思われます。その後も源頼朝や北条氏政、北条氏照も熱心に祈祷し、14世紀頃には、地元豪族の大石氏が二宮城を築いたとされています。大石氏は信濃国佐久郡大石郷に住んでいたことから、大石氏を名乗ったとされ、一般的には清和源氏義仲流されています。しかしこれは大石氏中興の祖とされる大石信重が縁戚関係とされる木曾氏から養子として大石氏にやってきたためで、その先代である大石為重までは秀郷流の信濃藤原氏の系統と称していたとされています。


古い記録の大半は神社の火災により消失してしまったとの事ですが、その復興の際には徳川家康の御朱印15石の寄進を受け、代々継承されて来たとの事です。

訪れる人も疎らで境内は比較的静かですが、城があったという立地から、現在でもあきる野市の街並が一望できます。


二宮神社

住所:〒197-0814 東京都あきる野市二宮2252

御祭神:国常立尊

アクセス:JR五日市線 東秋留駅より徒歩3分




勝峰山・藤太橋(日の出町)



 勝峰は「かつぼう」とか「かつぼ」と読むそうです。939年12月中旬、相模原方面から逃れた平将門が400名の配下と共にこの山に一夜城を築き、麓にある幸神集落の藤太口や藤太橋と呼ばれる場所に陣を構える藤原秀郷の軍勢3000名を迎え撃ったとされています。天慶3年(940年)1月7日、秀郷側の武将である菅口六郎左衛門が先発隊を率いて向かいの山から攻撃すると、将門は一丈もある金棒を振り回して迎撃したため激戦となり、夕方になっても決着がつかなかったそうです。藤太橋の陣にいる秀郷が苛立って様子を伺っていると、馬に跨る将門らしき姿を見たといいます。秀郷は欅の木に弦を張って即席の強弓を作って部下と共に弓を放つと、弓は将門の鎧の袖をかすめていき、その先の谷に消えて行きました。そのため、矢が飛んで行った谷を矢越沢(やこうざわ)と呼ぶようになったそうです。


また自軍の不利を悟った将門は勝峰山城を放棄し、将門坂(まさか)と呼ばれる道を通って北の青梅方面へ逃れたとされます。そして逃れた地で、馬の鞭に使用していた一梅の枝を植え、「我が事が成るならこの梅栄えよ、成らぬなら枯れよ」と祈願したところ、梅は根付いたものの、実はなぜか青いまま熟すことが無いまま落ちるため、それが青梅の地名の由来と言われています。その後将門が梅を植えた場所は、京都蓮台寺の寛空僧正が金剛寺を創建したとされています。


平将門が植えたと伝わる金剛寺の青梅
平将門が植えたと伝わる金剛寺の青梅

また平将門は妾との間で長男である平良門を授かり、彼らは奥多摩方面に逃れて将門神社を創建したとされています。また副将の藤原玄茂の子、万徳丸も3歳の時に乳母に抱かれ、軍茶利山(檜原村と山梨県上野原市の境にある)経由で力石(ちからいし、現・八王子市上恩方町)に逃れ、その子孫の草木氏が主君の名を冠した将門神社(まさか様)を創建したとされます。


その後の勝峰山の歴史的事象は近現代まで特筆するものがないのですが、豊富な石灰石が採掘できることから、大正時代になると山麓に浅野財閥のセメント工場が建設され、現在も太平洋マテリアル株式会社西多摩工場として稼働しています。かつてはその輸送のため五日市線の武蔵岩井駅が設置されていましたが、自動車輸送に転換される形で1971年(昭和46年)に廃止されました。その後、平成24年(2012年)に徳仁皇太子殿下(当時)が日の出山に登頂されたことを記念して「幸せの鐘」を設置し、遊歩道も整備されました。


山頂に設置された幸せの鐘
山頂に設置された幸せの鐘
山頂からの眺め
山頂からの眺め

一方、藤太橋は大正末期まで石橋として現存していたようですが、道路改修で消滅しました。現在は橋の一部である石材と案内板、そして「藤太軒理容所」という、よく映画やドラマのロケに使用される床屋さんに名前が残っているのみとなっています。


藤太橋にある藤太軒理容所
藤太橋にある藤太軒理容所

勝峰山

住所:〒190-0181 東京都西多摩郡日の出町大久野

アクセス:JR五日市線 武蔵五日市駅よりバス4分、岩井橋バス停下車


藤太橋

住所:〒190-0181 東京都西多摩郡日の出町大久野1708

アクセス:JR五日市線 武蔵五日市駅よりバス4分、大久野中学校前バス停下車





霞ノ関・熊野神社(多摩市関戸)



霞ノ関は多摩市関戸にあった関所です。多摩市史によると、『曽我物語』巻第五の1193年(建久4年)3月下旬に源頼朝一行が上野・下野の狩倉を見るために鎌倉を出発し関戸に宿泊するくだりがあり、それによるとこの地名の由来は、平将門が関所を立てたものを藤原秀郷が「霞ノ関」と名付け、これを打ち破ったと記されているとの事です。その後建保元年(1213年)、鎌倉幕府によって改めて関所が設置されます。鎌倉時代に設置された関所は、鎌倉上道を相模国から武蔵国に抜ける際に通ることから、鎌倉時代においてはかなり著名であり、慈円・藤原定家・藤原道家など数々の旅人の歌に詠まれたとされています。その後南北朝時代に霞ノ関は軍事的役割を終え、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が略奪を禁ずる「禁制」を下すと同時に廃止されました。また延徳元年(1489年)、役割をほぼ終えていた関所の一部分に熊野神社が創建されました。現在は熊野神社の参道に木柱を模した鉄筋コンクリートが埋め込まれ「霞ノ関南木戸柵跡」として復元されています。


なお南だけでなく、北木戸柵もあったと推定されていますが、まだ遺跡の発見には至っていないようです。


霞ノ関・熊野神社

住所:〒206-0011 東京都多摩市関戸5-35-5・熊野神社参道

アクセス:京王線 聖蹟桜ヶ丘駅よりバス10分、熊野神社バス停下車



 またまた長くなってしまいました。次回は今まで紹介した伝承をまとめ、多摩での秀郷の動きを追跡していきたいますので、もう少しお付き合い頂ければと思います。。

コメント


■ カテゴリー別

おすすめページ

bottom of page