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【水野先生コラム】皆川歴史研究会が発足します/その⑤

2025年12月9日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

顧問 水野 拓昌



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北条氏との激闘 皆川広照、苦難の日々


皆川広照は、宇都宮氏→北条氏→徳川氏と仕える相手を替え、戦国時代を生き延びたので処世術に優れた世渡り上手のイメージがあります。しかし、戦国時代はそんな生易しいものではありません。宇都宮氏の家臣として最前線で北条氏と戦い、大きな犠牲を払い、最後は滅亡か降伏かという究極の選択を迫られ、苦渋の決断をしたのです。そして、北条氏に服属した以上は忠誠を示すため、先兵として旧主・宇都宮氏を攻めねばならず、苦しい戦いの日々が続きました。

広照が活躍した16世紀後半、小田原城を拠点とした北条氏は、3代目の北条氏康から4代目・氏政、5代目・氏直と代替わりが進みます。関東一円を掌握しますが、北関東では宇都宮氏、佐竹氏、結城氏といった有力諸将が反北条連合を形成。さらに、皆川広照をはじめ佐野氏、長尾氏、由良氏といった小勢力が北条氏北進の防波堤になっていました。



■沼尻合戦、110日間のにらみ合い


1584年(天正12年)4~7月、下野・三毳山(みかもやま)の南西にかつて広がっていた越名沼付近、沼尻の地名がある一帯(栃木県栃木市)で北条勢と反北条連合軍が対陣します。沼尻合戦です。

北条氏直、氏照(氏直の叔父)ら北条軍7万、反北条連合軍2万~3万とされ、宇都宮領内の神社の記録に「4月17日、宇都宮国綱ご出陣。佐竹義重も同陣。沼尻という地に戦陣を敷き、百十日にてご帰還」などと書かれています。沼尻合戦は110日間の長期対陣でしたが、両軍にらみ合ったまま大規模な戦闘はなく、和睦して終結しました。

なお、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いも同時期に展開。沼尻合戦の最中、皆川広照は家康と連絡を取り合っていました。

家康は2年前に北条氏と和議を結んでいて、そのため、背後を気にせず、秀吉との戦いに集中できたわけです。反北条連合軍の一員として沼尻合戦に参陣している広照にとって家康は敵の味方といえます。一方で北条氏への影響力はあり、広照は家康による調停を期待していた可能性があります。



■草倉山合戦 記録に残る戦死者の名


沼尻合戦の後、北条氏は由良氏の金山城(群馬県太田市)、長尾氏の館林城(群馬県館林市)を攻め、1585年(天正13)1月頃には両城の明け渡しに至っています。

もちろん、沼尻合戦の和議に反する行動で、広照は、家康に関東の情勢を報告した1584年(天正12)11月23日の書状で、北条氏の行動を非難しています。

「(沼尻合戦の)対陣は4月下旬から7月上旬に至り、勝負がつかないので北条氏照の要望で和睦し、血判の誓紙まで交わした。しかし、北条勢は上野・新田荘(群馬県太田市)方面へ軍勢を向けている。前代未聞であり、関東に北条氏に味方する者はいない」

佐野氏も若い当主・佐野宗綱が長尾氏との戦いで戦死。北条氏康の六男・氏忠を養子に迎え、北条陣営に組み込まれました。

1585年、いよいよ皆川氏も北条氏の猛攻にさらされ、広照は支城・太平山城で迎撃。大軍に包囲されて太平山城は炎上し、北方の草倉山に陣を移して抵抗戦を続けます。家臣283人が討ち死にし、広照自身も自害を覚悟するほど。草倉山には戦死者を葬った千人塚が残っています。

『皆川正中録』によると、草倉山合戦は100日間に及びました。また、皆川氏には戦死した家臣の人名録が残されていて、『皆川家臣討死帳』にはこの年8、9月を中心に草倉山で戦死した家臣の名が日付ごとに記載。大激戦だったことを裏付けています。



◇「皆川歴史研究会」は12月22日に設立総会と記念講演会が開かれます。

詳細は、こちらのホームページをご参照ください。

(皆川歴史研究会)




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