【水野先生コラム】皆川歴史研究会が発足します/その⑥
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2025年12月10日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
顧問 水野 拓昌

若き日の皆川広照 謙信との出会い、宇都宮城占拠…
今回は、皆川広照の若き日の活躍を紹介します。
『皆川歴代記』によると、1561年(永禄4)5月、上杉謙信(当時の名は政虎)の関東出陣に合わせ、皆川広照は病気の父・俊宗に代わって家臣団を率いて参陣し、謙信と対面しました。14歳の初陣です。謙信は北条氏康の関東侵攻を食い止めようと、関東諸将に加勢を求めたのですが、結局、広照が初陣を飾るような派手な戦闘場面はありませんでした。
なお、上杉謙信は32歳の同年、山内上杉家の家督と関東管領職を継いで、閏3月に長尾景虎から上杉政虎、さらに12月には上杉輝虎と名を変え、その間、関東から帰国して8、9月に第4次川中島合戦で武田信玄と激戦を展開しており、忙しい年でした。
この頃、皆川氏はたびたび壬生氏と衝突。皆川氏も壬生氏も宇都宮氏家臣ですが、両氏は宇都宮氏との関係は長くないので家臣団の外の協力者という気分も抜けず、自分の所領は自分で守るといった状況。宇都宮氏の統率力が弱く、こうした混乱状況を招いていたのかもしれません。
■合戦を謙信が見物、武勇を賞賛
『皆川歴代記』には、1566(永禄9)4月、大中寺(栃木市)での上杉謙信と皆川俊宗、広照父子の酒宴の場面があります。皆川の武士は謙信の盃を受けて大いに感激。ところが、宇都宮氏、壬生氏が所領の境界の城に攻めてきたという報告が飛び込んできました。謙信はこう激励します。
「御父子とも早々に帰って防戦の用意をなさるべし。俊宗父子の合戦はまだ見たことがないので、われらも後から駆け付け、この一戦を見物つかまつる」
宇都宮勢1万5000人、皆川勢5000人余りの戦いは、双方3手に分かれてぶつかり合い、広照は宇都宮主力部隊と対戦。大激戦ながら最終的に宇都宮勢を退散させ、皆川勢は大いに面目を施しました。特に広照の陣で活躍した片柳兵庫介は謙信から大盃を授けられ、「今日の働きは武の冥加にかなう。今後は兵庫介を改め冥加之介と名乗られよ」と賞賛されました。
こうしたエピソードは関東管領であり、最強の名将だった謙信との絆、特別の関係を強調し、皆川氏の歴史に箔をつける狙いがあると考えられます。
■第三極模索も…父・俊宗の誤算
若い頃の皆川広照の離れ技としては1572年(元亀3)1月の宇都宮城占拠があります。新年の挨拶で登城した父・俊宗はその晩、宇都宮氏重臣・岡本宗慶を暗殺。この騒ぎに乗じて広照が宇都宮城に侵入し、城主・宇都宮広綱の身柄を拘束します。皆川俊宗が宇都宮家中の実権を握ったクーデター。電光石火の早わざは名軍師・竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りにそっくりですが、作り話ではありません。
前述の広照初陣や大中寺酒宴のエピソードとは一転、宇都宮城占拠の皆川俊宗は反上杉の立場です。岡本宗慶は宇都宮家中で上杉氏との連携を主張する勢力の代表。俊宗は北条氏寄りとみられていますが、前年秋の那須氏への書状では、那須、白河、蘆名の3氏連合への接近を図っていたことが分かります。宇都宮氏の敵だった那須氏との因縁を水に流し、北条、上杉の二大勢力とは別の第三極を模索していたようです。
結局、俊宗の構想はうまくいかず、宇都宮氏と佐竹氏の攻撃を受け、1573年(天正元)2月までに支城をことごとく失いました。俊宗は同9月頃、広照の兄・広勝は1576年(天正4)12月に死去。家督を継いだ頃の広照は大波乱の中にあり、北条氏と宇都宮氏の間で相当揺れ動き、天正年間に再び、宇都宮氏に従っています。
◇「皆川歴史研究会」は12月22日に設立総会と記念講演会が開かれます。
詳細は、こちらのホームページをご参照ください。
(皆川歴史研究会)







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