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【水野先生コラム】皆川歴史研究会が発足します/その⑦

2025年12月11日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

顧問 水野 拓昌



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皆川広照、蔵の街・栃木の基礎を築く


江戸時代、現在の栃木市中心部は商業の街として発展しました。有力商人が大きな石蔵を構え、現在の「蔵の街」「小江戸」の景観にもつながり、商人たちの経済力は江戸文化にも貢献しています。

何といっても、栃木の街と浮世絵師・喜多川歌麿との関係が注目されます。

歌麿の大作「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」、いわゆる「雪月花」を発注したのは善野伊兵衛。「釜屋」の屋号を持ち、釜屋伊兵衛の名でも知られています。通称「釜伊」です。歌麿とは狂歌を通じた交流もありました。伊兵衛の甥、4代目・釜屋喜兵衛、通称「釜喜」も歌麿との交流は深く、狂歌では「通用亭徳成」のペンネームも持つ本格派。歌麿の作品の登場する彼の狂歌も多いようです。

また、「雪月花」だけでなく、栃木市内やゆかりの旧家から歌麿の肉筆画「女達磨図」「鐘馗図」「三福神の相撲図」が近年発見され、栃木に歌麿ブームが起きました。今では、歌麿まつりも毎年開かれています。



■皆川城から栃木城へ 広照の先見性


これらの歌麿作品が制作されたのは江戸幕府が開かれてから180~190年後の江戸時代中期で、皆川広照がその繁栄の礎を築いたことは今日、ほとんど意識されていません。

広照がどう関わったのかといえば、この地に栃木城を築き、後の発展の基礎を築いたということです。城は廃城になってしまいましたが、その後も日光例幣使街道の宿場町・栃木宿として発展し、巴波川(うずまがわ)の舟運で商業が大いに栄えました。

栃木城の築城は1591年(天正19)。皆川氏の本拠地を皆川城から移します。ただ、広照は徳川家康六男・松平忠輝の家老となり、信濃・飯山城(長野県飯山市)を得ているので、その時は既に栃木を離れていたとみるべきでしょう。さらに1609年(慶長14)には改易の憂き目に遭い、栃木城は廃城。復帰後の広照は常陸・府中藩主となり、その拠点は現在の茨城県石岡市で、広照が栃木城で過ごしたのは10年程度で、栃木の発展に果たした役割は初期に限定されています。ただ、廃城後の栃木城跡に陣屋があった時期があり、発展の核となる場所の選定など、確かな目を持っていたといえます。



■皆川城落城「皆川崩れ」はなかった


皆川広照が皆川城から栃木城に移った理由ですが、これまで皆川城落城が決定的な契機とする見方が主流でした。『皆川正中録』によると、皆川城は1590年(天正18)4月8日、上杉景勝の大軍に攻められて落城したといいます。「皆川崩れ」とも呼ばれ、皆川氏の歴史のターニングポイントと認識されています。

しかし、皆川広照は小田原城を脱出して徳川家康配下に収まっており、豊臣秀吉方の武将から皆川城を攻撃される理由はありません。そして、『皆川家臣討死帳』にはこの年の戦死者は非常に少なく、皆川城で戦闘があったとは思えません。皆川城落城、「皆川崩れ」はなかったのです。

では、なぜ、広照は本城を皆川城から栃木城に移したのか?

広照は戦乱から地域発展の時代への移り変わりを感じて、山城から平城への転換を図ったとみるべきです。北条氏滅亡と豊臣秀吉の天下統一、徳川家康の関東移転といった事態の変化に、戦乱の終結を見たのです。

山城は敵に攻められた時の防御を前提としていて、地域経営には不便。地域経済の発展や他地域との交流を考えれば、交通の便の良い平地が良いわけです。

結果として、秀吉による平和は長続きせず、家康の天下取りのために戦闘も続きましたが、戦国時代が収束していく方向性は見えていたはずです。(おわり)



◇「皆川歴史研究会」は12月22日に設立総会と記念講演会が開かれます。

詳細は、こちらのホームページをご参照ください。

(皆川歴史研究会)




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