【会員寄稿コラム】ここから古への思い《2》源経基から見た平将門の乱と藤原秀郷
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2026年4月10日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光

埼玉県鴻巣市にある源経基の館跡です。1000年以上経っているのに周りの掘りや土類が綺麗に残っています。ただ、遺構から察するとどうも中世後半に造られた館跡のようで源経基が住んでいたと言われる館を後世に作り変えたのでは?との意見もあります。
ところで、源経基(みなもとのつねもと)って誰?頼朝、義経は知っているんだけど。
曲輪の北側の小高い所にある大きな板碑には「六孫王源経基城址」。六孫王ってどういう意味?




源経基の父は、清和天皇の第六皇子「貞純親王」です。また天皇の孫(男子)の総称は○○王、父が六番館の皇子で経基は清和天皇の孫の王と言う訳でしょうか。臣籍降下(しんせきこうか)?と言うことはあの清和源氏、「みなもとの○○」の最初の人(始祖)です。
*臣籍降下とは、皇族を離れて姓を与えられ臣下となること
938年(承平8)平安時代中期、武蔵権守(埼玉県知事代理)の興世王(おきよおう)と武蔵介(埼玉県副知事)の源経基の二人は任地の武蔵に着くと早速、検注(土地調査)をやり年貢を追加徴収しようとすると、現地役人の武蔵竹芝(むさしたけしば)から「正式な国守が来るまで出来ません」と断られてしまう。納得できない二人は竹芝の家を襲い略奪、不意をつかれた竹芝は命からがら逃げてしまいます。
そこで、竹芝は東の方で名をはせている「平将門」に調停を依頼します。将門と聞いて興世王は顔面蒼白、直ぐに調停に応じますが、源経基は殺されると思い山へ逃げ込んでしまいしまいます。その後竹芝に館を包囲された経基はそのまま都へ逃げ帰ってしまい、将門等三名が謀叛を企ていると朝廷に訴えてしまいました。
939年(天慶2)5月2日将門は坂東5ヵ国の国守から、謀叛疑惑に対しての「事実無根」の証明書を取り寄せ、時の太政大臣、藤原忠平に送ると、あっさり無罪となってしまいます。謀叛を訴えた源経基、今度は逆に捉えられて拘束されてしまいます。この頃すでに将門はその軍事力を背景に坂東地域のほとんどを手中にしていて近隣国守は手も足も出せない状況。
同年11月、常陸の土豪で素行の悪い藤原玄明(はるあき)を匿った将門に対して、いよいよ朝廷は常陸国守藤原維幾(これちか)に将門討伐命令だし、維幾も果敢に戦いますが、敗れ降伏してしまいます。この時に国守の印璽を渡してしまったことで、以後将門は朝廷にはむかう逆賊となってしまうのです。
940年(天慶2)1月、将門が逆賊となってしまったおかげで?今度は密告した源経基が見直され釈放の上、従五位下を叙位されます。
同年1月19日、朝廷は坂東及び近隣諸国に「将門を打ち取ったものには恩賞出す」通知書を出し、藤原忠文(参議)を征東大将軍、副将に源経基からなる将門討伐軍を編成、直ちに坂東へ向かわせるのですが…討伐軍が到着する前に、藤原秀郷、平貞盛、藤原為憲等によって将門軍は成敗され、将門本人も討ち死にしてしまいました。



明けて941年(天慶3)今度は西、「藤原純友の乱」の討伐軍、大将軍は小野古好(ふるよし)、副将は前回同様、源経基ですが、大将小野古好の大活躍によりまたしても副将経基は見せ場なく終了。
経基は内心、平将門も藤原純友も強そうだし恐ろしいし本当は戦いたくない?いやいや活躍して出世のきっかけにしなければ…そんな思いが駆け巡っていたかも知れません。その上、本当は臣下にならず、皇族のままでいたかった…なんて話もあるようです。
さて、この源経基、清和源氏の始祖でありながら歴史に登場するのは僅か7~8年、しかもこれといった大きな功績もありません。しかし、後世に登場する偉大な子孫達、源頼朝、足利尊氏、徳川家康(ちょっと怪しい)などのおかげで武家の棟梁清和源氏のカリスマ始祖?になっています。





平将門の乱を挟んで藤原秀郷とはすれ違いだった源経基。戦後の官位、秀郷は従四位下鎮守府将軍、経基は従五位下…この雲泥の差に「しょうがない」と「一人だけいい思いしてる」この二つの感情の葛藤を、二人の子孫達の出会いや関わりにかいま見ることになる?…と言う妄想ロマンのは続きます。
969年、 安和の変 源満仲(経基嫡男)VS藤原千晴(秀郷三男)
1028年、平忠常の乱 源頼信と藤原兼光
1057年、前九年の役 源頼義と藤原頼遠、経清、公光
1189年、奥州征伐 源頼朝VS藤原泰衡、源義経と藤原秀衡
【その他】源義国と足利家綱、源為義と足利俊綱、小野寺義寛、足利義兼VS足利忠綱、有綱、源頼政と下河辺行平など。
参考資料
「日本紀略」
「扶桑略記」
「将門記」
源経基(千葉氏の一族)
源経基(水野拓昌、戦国ヒストリー)
余呉さんの「余呉図コレクション」など



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