佐野昌綱 さのまさつな
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No. 67
【佐野昌綱】
さの まさつな
Sano Masatsuna
唐沢山城を拠点に、上杉謙信や後北条氏という二大勢力の狭間で巧みな外交と驚異的な粘り強さを発揮した戦国武将。度重なる巨大勢力の侵攻を受けながらも、本領を維持し、佐野氏の独立性を守り抜いた。
【別称】小太郎
【時代】戦国時代〜安土桃山時代 【生誕】享禄2年1529年 【死没】天正2年4月8日1574年 【墓所】栃木県佐野市 本光寺 【官位】不明 【氏族・血族】秀郷流佐野氏
【在所・所領】下野国佐野
【由縁の場所】唐沢山神社(唐沢山城址)
【家系・系譜】
父:佐野泰綱
兄弟:豊綱、房綱、祐願寺
子:宗綱、桐生親綱、虎房丸、正慶
■上杉謙信を悩ませた唐沢山城の名将
佐野昌綱(さの まさつな)は、藤原秀郷の流れをくむ佐野氏第15代当主であり、戦国時代の唐沢山城主です。
昌綱の名を語る上で欠かせないのが、「越後の虎」上杉謙信との攻防です。
一般には、1559年(永禄2年)、北条氏政の大軍に包囲された昌綱を救うため、上杉謙信が少数の兵で敵中を突破したという逸話が知られています。しかし、これは江戸時代の軍記物『関八州古戦録』に見られる創作色の強い物語で、史実として確認されているわけではありません。
実際には、昌綱と謙信は協力関係にあった時期もありましたが、基本的には敵対関係にありました。唐沢山城は関東北部の重要拠点であり、関東管領として北条氏と対峙する謙信にとって見過ごせない存在だったのです。
そのため謙信は何度も唐沢山城へ兵を進めました。一般には「十度の唐沢山城攻め」と伝わりますが、史料で確実に確認できるのは五度ほどとされています。昌綱はそのたびに巧みに対応し、難攻不落といわれた唐沢山城を守り抜きました。
興味深いのは、1566年(永禄9年)、謙信が奉納した願文です。そこには
「越後、佐野之地、倉内之地、厩橋之地」
の長久無事を祈る文言が記されています。
自国・越後の次に「佐野之地」が記されていることからも、謙信にとって佐野がいかに重要な戦略拠点であったかがうかがえます。
しかし昌綱は、上杉氏と北条氏という二大勢力に挟まれながら、一方に従属しきることなく生き残りを図りました。時に上杉方へ、時に北条方へと立場を変えながら、佐野氏と領国を守り続けたのです。
謙信の書状には、
「佐野小太郎(昌綱)は若輩で、家中の者に惑わされている」
といった愚痴めいた記述も残されており、昌綱が謙信にとって扱いにくい相手だったことがうかがえます。
上杉謙信や北条氏政といった戦国屈指の大名たちに翻弄されながらも、したたかに生き抜いた佐野昌綱。まさに戦国下野を代表する名将の一人といえるでしょう。
※記載の内容は、当会が歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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