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【会員活動報告】藤原秀郷流を訪ねて《12》

  • 2 日前
  • 読了時間: 4分

2026年6月12日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光




会津阿弥陀寺と南摩綱紀


今年も会津鶴ヶ城にやって来た。凄腕ガイドさんに案内されてバッチリ3時間のはずだったが、1時間で終了「あれ?」。さてどうしましょう?

みんな思い思いに散っていく、「鶴ヶ城から移築した三重櫓がある阿弥陀寺へ行ってみる?」 仲良し三人組、いつものYちゃんと賑やかKさん、ついでだから大正レトロ、七日町通りをチラ見。新撰組ショップ、駅カフェに立ち寄り阿弥陀寺へ。


会津鶴ヶ城
会津鶴ヶ城

「おっ、ここだね」なにやら石碑がいっぱいある。奥に行くと1874年(明治7)に鶴ヶ城から移転されたレトロ三重櫓が見えてきた。「密会所?だったらしいけど、どの辺りにあったのかなぁ~」、「茶室の辺りだったらしいよ」二人の会話をよそに石碑が気になってしょうがない私。




藤田五郎って誰、斎藤一だね、明治まで生きた数少ない新撰組の三番隊長だ。それから、萱野長修(権兵衛)。確か、大河ドラマ「八重の桜」では柳沢慎吾が演じていた会津藩の家老、主君松平容保(かたもり)をかばい責任をとり自害したと言う。石碑には彼をたたえたであろう文面が、その最後に「撰者、南摩綱紀(なんまつなのり)」とある。戊辰戦争戦没者慰霊一色のこの空間に南摩綱紀です。


南摩 綱紀
南摩 綱紀

栃木県鹿沼市にある中世城跡、上南摩城と下南摩城(滝尾山)。当初の城主は南摩氏、綱紀はこの南摩氏の子孫であると後述している。中世の一時期この地域は佐野氏の領地であったことから、南摩氏は藤原秀郷流佐野氏の庶流といわれている。



幕末会津藩重臣だった綱紀は戊辰戦争の後、間もなくして謹慎を解かれてからは学校教育に貢献、東京大学教授などを歴任し1884年(明治17)に「追遠日録」(ついえんにちろく)と言う紀行文を書いている。

追遠日録
追遠日録

この紀行文は1883年(明治16)に栃木県佐野市に創建された唐沢山神社へ参拝した際の旅日記。 彼は冒頭部分でこう書いている。

「わが先祖藤原秀郷公は、下野の国唐沢山に城を築き本拠とされた。明治14年末裔と旧臣たちは、その城跡に祠を作り、秀郷公の霊を祭り、唐沢山神社と名づけたいと、朝廷に願い出た。明治16年8月、特別な思し召しにより正三位が贈られ、越えて明年の春、祠が落成し、祭典が行われた。私は公務があったため参詣することができず、大変残念に思っていた。7月になって、休暇を賜ったので、そこで出かけ参拝することとした。あわせて途中で見聞したことを記録し、子孫に示そうと思うのである。」

7月27日から8月2日までの日程は唐沢山神社参拝と旧臣たちとの親交が目的のようです。

 

唐沢山神社
唐沢山神社

秀郷流推しの私が気に入ったところ

①  佐野家当主、旧家臣やその親族、東明会の人々との親交のやりとり

*東明会➡藤原秀郷の子孫や旧臣達が、秀郷の遺徳を偲び唐沢山神社の建設を目的として明治初期に結成された組織(初代総裁は政府高官、佐野常臣)

 

②  当時の交通手段や風景描写などの時代背景

 

両国橋から蒸気船で江戸川から関宿、利根川へ、渡良瀬川から古河で一泊。途中、鴻之台(国府台)辺りで廃城が見え国府台合戦の里見氏を思い浮かべる。

 

野州藤岡で下船、出迎えた山士家左伝(田原族譜の作者)と藤岡赤間地区などを散策し森鴎村(儒学者)お尋ねる。

 

29日、朝、佐野郷(ごう、佐野家31代当主)に手紙を出す。山士家左伝等と唐沢山城へ富士口より登城、唐沢山神社では色々な思いを浮かべながら参拝。休憩所にもどると東明会の秋山林策(佐野家旧臣、元家老)が合流、唐沢山城の遺構、名所などを事細かく案内する。午後から佐野郷が合流、夜は犬伏で酒宴。

 

30日、東明会の幹事達(関口省三、中野貢次郎、鈴木五一郎等)がやって来る。夜には郷の実家、多田村の清水家(佐野家庶流)で兄の多一郎から饗応を受ける。その席で郷より「鉢の木物語」の余り知られていない伝承を聞く。また、綱紀は佐野地区に伝わる藤原定家の和歌は同じ佐野でも奈良県の佐野であると力説する。

 

その後は寺岡にある郷の自宅を訪問し、足利学校を見学したりして8月2日に熊谷から蒸気機関車で帰路につく。

 

下野南摩氏は時に宇都宮氏、時に壬生氏、境目の小城主の宿命ながら、何とか存続したが1590年豊臣秀吉の小田原征伐後、城は廃城。城主、家臣も含め浪人となり他家に仕官、帰農となる。その中で会津藩保科正之に仕えた南摩氏の後裔が綱紀。

 

明治初期にこんな熱い秀郷流がいた、感無量です。会津と言えばわずか5年の統治ながら、基礎を作った功労者と慕われている蒲生氏郷、約300年の時を経て唐沢山神社に参拝した南摩綱紀。同じ秀郷流として、同じ会津で過ごした武士として氏郷の存在はきっと特別なものだったと。

この紀行文には氏郷の影は見えませんが、1883年(明治16)7月28日、唐沢山神社参拝の二礼二拍手一礼が思いのほか長かったのは、氏郷への心使いだったのではと、思えてなりません。 参考資料

 「追遠日録」    道坂 昭廣

 「南摩家通史」   上澤 光綱   他







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