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藤原秀郷流を訪ねて《14》

3 時間前
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 「頼朝の奥州進出から、秀郷流諸氏のその後」

2026.11.1 栃木の武将「藤原秀郷」をヒーローにする会 佐野支部 永島正光



先日、日光市今市にある歴史民俗資料館で江田郁夫氏による「中世会津街道物語」(会津西街道)と題した講演会に参加しました。個人的に今市から会津若松までのこの街道は大好きで何回となく訪れています。江田氏の講演の中でこの街道は中世より奥州と坂東を結ぶ重要な街道の一つで関所もあった可能性があると指摘していました。


確かに、豊臣秀吉は会津仕置きの帰路にこの街道を使っており、戊辰戦争でも激戦が繰り広げられました。室町時代には藤原地区を領する南山長沼氏と宇都宮氏の関わりなどの記録もあります。そして、近年の足尾地区で発見された1589年(天正17)伊達政宗が足尾の太郎左衛門なる人物に発給した「通行許可証」があります。これはこの時代既に、上野(群馬県)と会津(福島県)の交易があり重要な街道だった証だと思います。








さて、中世の会津地区の歴史を見てみましょう。1589年(天正17)伊達政宗が「摺上原(すりあげはら)の戦い」で蘆名義広を破り会津地区を支配下とする以前は「会津四家」(あいずしけ)と呼ばれた有力な一族が存在しました。会津黒川地区の蘆名氏(桓武平氏三浦氏流)そして南会津の長沼氏、河原田氏、山内氏。この三氏は全て自称藤原秀郷流です(諸説あり)。


この会津四家は鎌倉時代初期から中期にかけて1189年(文治5)の奥州藤原氏征伐や1221年(承久3)の承久の乱の戦功によってこの地を恩賞としていただいたとされています。特に長沼氏は南山(みなみやま、現在の会津田島町付近)地区だけでなく、現在の三依地区(現在の栃木県)も支配していた時期もあったようですので、会津西街道も支配下だったのではないかと思われます。





鎌倉時代初期から中期、会津西街道の他に奥州と坂東を結ぶ街道はと言うと、奥州街道と岩城相馬街道(陸前浜街道)があり、それぞれに白河の関、勿来(なこそ)の関(現在のいわき市)がありました。そこには白河結城氏(秀郷流)、岩城氏(桓武平氏平繁盛流)が地頭職を賜っています。三つの主要街道の関所の二つを藤原秀郷流(小山氏系)の家が関わっていた可能性が見えます。しかも残りの一つ、勿来の関のある岩城の菊田荘には1230年(寛喜2)に小山氏(後に上遠野氏(かどの、かみとうの)となり岩城氏傘下重臣となる)が相伝(引き継ぐ)した記録があります。長沼氏も宗家が南会津に進出したのは1352年(観応3)とありますが代官などはその前から居住していたと思われます。










このように南陸奥(現在の福島県南部)を押さえる要所には、小山氏、長沼氏、結城氏と、あの小山三兄弟の子孫たちの姿が見えてきます。その上、南会津の河原田氏も小山氏系(発祥地は現在の栃木市河原田地区)です。山内氏も含め全部「藤原秀郷流」なのです。これ、偶然だと思いますか?


頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、その後、陸奥・出羽の支配体制を再編していく上で誰をどこに置くかが頼朝にとって極めて重要だったと推測できます。そして、頼朝がこの地を恩

賞として与えたのは、1183年(寿永2)の野木野宮合戦以降、小山政光や三兄弟の息子たちへの強い信頼があったのではないでしょうか。そして、忘れてはならないのは頼朝の乳母(めのと、うば)寒川尼(さむかわのあま)の存在です。宇都宮氏初代宗円の孫娘で八田知家の姉、小山政光の後妻で結城朝光の母です。一説には、朝光は頼朝のご落胤といわれ、1180年(治承4)14歳で元服。烏帽子親は頼朝が務め「朝」の一字を与え「朝光」としました。また、寒川尼は1187年(文治3)頼朝から下野寒川郡の地頭職(女性は珍しい)に任じられ、しかも91歳の長寿でした。頼朝の死後も尼将軍政子がおり信頼はしばらく引き継がれたのではないかと思います。








因みに頼朝の乳母はもう三人いて、比企尼(ひきのあま)、山内尼(やまうちのあま)、三善康信の伯母ですが、比企氏、山内氏こちらも秀郷流です。


しかし、中世は甘くない。頼朝から与えられた信頼は、子孫に永遠の安泰を約束したものではなかったのです。秀郷の名を背負った人々がどう生き残ったのか、戦国の世を生き抜いた彼らが、最後に選んだのは「死」ではなく「存続」だったのではないかと、思えてきたのです。


1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐後の奥州仕置き(おうしゅうしおき=陸奥国、出羽国の大名に対する領土処分や配置換え)で、残ったのは佐竹氏(常陸⮕出羽)、上杉氏(会津⮕米沢)、伊達氏(米沢⮕仙台)の大大名。藤原秀郷流と称する領主たちは南陸奥から全て消えてしまったのです。そんな彼等を追いかけてみたくなりました。


そこで最大のポイントとなるのが、1589年(天正17)2月26日の「摺上原(すりあげはら)の戦い」で会津黒川の蘆名義広を実家の常陸の佐竹へ敗走させ、蘆名氏を滅ぼした伊達政宗、その勢いは止まりません。南陸奥の国人領主、長沼氏、白河結城氏、岩城氏は戦わずして恭順、傘下となってしまいます。しかし、南会津の河原田盛次、山内氏勝は徹底交戦するも次第に追いつめられて最後には上杉景勝を頼って越後へ落ち延び生涯を終えるのです。長沼氏、白河結城氏、岩城氏はどうだったのでしょうか。












岩城氏家臣の上遠野氏の宗家は帰農、庶流が伊達氏と佐竹氏の家臣となっています。特に伊達氏の家臣の子孫からは江戸時代中後期、上遠野広秀(かどのひろひで)、上遠野秀忠(かどのひでただ)等の優れた剣豪、武術家を生んでいます。


白河結城氏の嫡流は佐竹氏の家臣となり、たくさんの貴重な古文書を今日に残しています。また、同族の小峰氏は伊達氏へ、その家臣となっています。


長沼氏は1314年(正和3)頃、岩瀬(現在の須賀川市付近)その後、南山会津に居住していました。戦国末期には伊達政宗と誼(よしみ)を通じていた長沼盛秀が伊達軍の先方として河原田氏や山内氏との戦い、その時の傷が原因で1590年(天正18)に亡くなってしまいます。残された三人の息子たちは伊達家に仕え二男の盛重は重臣となります。


ところが、1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥州仕置きで伊達政宗は仙台へ転封となってしまいます。上杉景勝も越後から会津そして関ヶ原の戦い後米沢へ。最後に常陸の佐竹義宣も1602年(慶長7)秋田へ減転封。それぞれの家臣となっていた秀郷流の子孫たちも秋田、仙台へと移っていったのです。


また、長沼氏はそれ以前の1429年(永享元)に宗家筋の長沼秀宗が下野の皆川へ転居しその子氏秀が皆川と名乗りました。戦国時代、皆川広照は宇都宮氏、北条氏、徳川氏と主君をかえますが、江戸時代には徳川譜代大名となります。一時期失脚しますが大阪の陣で復活、子孫は旗本として幕末まで続きました。







私は最後を、先祖を称えるだけではなく、現代の私たちへの「問い」にしたいです。


頼朝から与えられた土地も、武士としての立場も、時代とともに失われていった。それでも家は残った。名前が残った。そして、先祖が生きた記憶も残った。


秀郷流の「誇り」とは、決して勝ち続けることではないかもしれません。


敗れても、主家を変えても、土地を離れても、時代に翻弄されても、先祖から受け継いだものを次の世代へ渡す。生き残ることもまた、武士の覚悟だったのではないでしょうか。


そして今、私たちに出来ることは、その人々が何を守り、何を受け継いできたのかを知ることではないでしょうか。


これは秀郷流に限ったことではありません。1668年(寛文8)の水戸徳川家の家臣団にはいろいろな経歴を持った人をたくさん見ることができます。私にはそんな方々の苗字を見つける度に明治・大正・昭和を経て令和の現代まできっとその「生きる=誇り」は受け継がれていると思えてなりません。





*江戸末期の仙台藩家臣より抜粋


上遠野家(800石、栗原郡大川口在所)


上遠野高秀-守秀=常秀(上遠野秀勝の子)-秀実-広秀-元秀-亮秀-徳秀=秀宣(岩出山伊達宗秩の子)


長沼家(1,500石、栗原郡宮沢要害)


長沼盛重-信重-致貞-致信-致真-致泰-致辰-致豊-致中=致季(泉田基時の子)


真坂白河家(1,043石、栗原郡真坂所)


結城義親=白河義綱(小峰義名の子)-義実-宗広(綱村の乳兄弟)-村親-村広=村祐(宮床伊達村興の子)-村雄-宗秀-邦親


下真山白河家(玉造郡下真山)


白河朝清(白河義綱の三男)=朝国-直定-親之-親継-


*秋田久保田藩における白河結城氏の記述


中世において白河地域に勢力を誇った白河結城氏が受領した文書群90通で、秋田藩佐竹家に仕えた結城家に伝来した


*常陸府中藩断絶後の皆川家


元禄十一年(1698)、広隆(分家、父の秀隆は隆庸の二男)は所領を遠江国豊田、山名、周智の三郡内に移され、豊田郡一言村に陣屋が構えられた。以後、代を重ねて明治に至る。


現在、陣屋跡は畑地、宅地となり、遺構は見られない。畑の中に看板が立つのみである。他に陣屋の門が700mほど北の智恩斉の山門として移築されている。


参考資料


足尾地域歴史資料集(中世)        日光市歴史民俗資料館


長沼氏から皆川氏へ            栃木県立博物館


会津街道物語―日光と会津を結んだ道―   江田郁夫


秀吉の宇都宮・会津仕置きと喜連川家の誕生 江田郁夫


下野の武将たち              毎日新聞・宇都宮支局


他

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