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足利尊氏 あしかがたかうじ


File No. 36

【足利尊氏】

あしかがたかうじ 

takauji-ashikaga


室町幕府の初代将軍。

The first Shogun of “MUROMACHI BAKUHU”shogunate government.


【別称】高氏〜尊氏

【官位】従五位上〜鎮守府将軍〜正二位〜贈従一位、征夷大将軍

【生年】嘉元3年1305年

【没年】正平13年1358年

【氏族・血族】源氏、足利将軍家

【在所・所領】下野国足利

【主君】鎌倉幕府〜後醍醐天皇〜北朝光明天皇〜室町幕府を開く



後醍醐天皇に背く・・・逆賊?

実際は優しい人物だった?

巷間言われている人物像とは別人なのか?


■室町幕府 初代将軍

後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の元弘(げんこう)の乱で、はじめ幕府軍につくがその後倒幕側に転じ、建武(けんむ)新政における重要な臣下となる。

その後またも建武政権に反し、天皇方に敗れて一時九州にのがれるが、建武3年・延元元年、後醍醐方(南朝)の楠木正成を破り、京で光明天皇(北朝)を擁立。

建武式目を制定、室町幕府を開き初代将軍となる。「観応の擾乱」で弟の足利直義(ただよし)を討つ。


夢窓疎石(むそうそせき)に帰依し,天竜寺などを建立。

延文3=正平(しょうへい)13年4月30日死去。54歳。

法号は等持院。


■人物像について

武勇ばかりが目立つが、なぜか憎めない、魅力的な人物でもあったようである。夢窓疎石は「梅松論」の中で尊氏のことをこう評している。

「合戦で命の危険にあうのも度々だったが、笑みを含んで死を恐れる様子がない。慈悲深く、他人を恨むことを知らず、仇敵すら許し、我が子のように接する。御心が広く、物惜しみすることなど全くない。」ひとことでいえば「無私の人」。


度量も大きく、人々に愛される人徳の持ち主ということもあり、北条時行を破って鎌倉を実力で奪還した尊氏は、以後、武士たちの声望を集め、次第にその中心にまつりあげられていく。そう仕向けたのは弟の直義ともいわれるが、直義は後に尊氏によって討たれる。


おそらく尊氏自身には、源頼朝のように天下をとって幕府を開く、などという大それた野望はなかったのではないか。多分、周りに言われるまま、できることをやっているうちに南北朝の騒乱に巻き込まれ、将軍となって幕府を開き、弟を殺し、我が子を殺し、そうして時代を作っていった・・・


結果として、それが彼を歴史の一舞台の主人公たる大将軍にした。


■足利尊氏の和歌

評価もその時代によって分かれている。

逆賊と言われたり、人柄は良いだけと言われたり。

ただ、鷹揚で気前が良く、恩賞を惜しみなく分け与え、武士たちの信望を集めた血筋の良い名武将であったことは確かだろう。


結局尊氏は、自分なりの誇りと正義感を持ち、迷いながらも自分なりの行き方を実現した、時代の主役なのかもしれない。


いい人生だったのか。幸せだったのか。


尊氏が詠んだ和歌が残っている。

それが彼の本音だったような気がする・・・

「よしあしと 人をばいひて たれもみな

      わが心をや 知らぬなるらむ」

(人は私のことを、いいとか悪いとか好きに言ってくれるが、私の気持ちは誰も分からないのだなあ)


※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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