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源 義家 みなもと の よしいえ


No.7


【源 義家】

みなもと の よしいえ

Minamoto no Yoshiie


武勇の誉れ高い名将「八幡太郎義家」として、後世まで高い人気を誇る武将。坂東においての源氏繁栄の基礎を築いた。


【別称・通称】(幼名)不動丸または源太丸/八幡太郎(7歳の春に石清水八幡宮で元服したことから

【官位】出羽守/下野守/陸奥守/正四位下 鎮守府将軍

【生年】長暦3年(1039年)

【没年】嘉承元年(1106年)

【時代】平安時代後期

【氏族・血筋】清和源氏/河内源氏/石川源氏

【在所・所領】?

【墓所】大阪府南河内郡太子町

【所縁の場所】奥州平泉/石清水八幡宮


【家系・系譜】

父:源頼義 

母:平直方の娘

兄弟:義綱、義光、快誉

妻:藤原有綱の娘、源隆長の娘

子:義宗、義親、義忠、義国、義時、義隆



後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。

7歳の春に石清水八幡宮で元服したことから、通称・八幡太郎義家と呼ばれる。




■源義家について


源頼義の長男として、河内源氏の本拠である河内国で生まれる。

平安時代後期、永承6年1051年、陸奥国の有力豪族・安倍氏が税を納めず半ば独立的な勢力を持ったことから、朝廷は源頼義陸奥守に任じ追討命令を出した。この戦いに義家は父とともに参加、多くの犠牲者を出して大敗するといった経験をした。この安倍氏討伐は苦戦したが、出羽国・清原氏の応援を得てついに戦いに勝つことができた。


康平6年1063年、前九年の役での功績により、義家は従五位下・出羽守に叙任された。だが、出羽国は先の戦いで援助を求めた清原氏の本拠地だったため、うまく治めることは難しく、義家は、朝廷に越中守への転任を希望したという。


扶桑略記』によれば、延久2年1070年には下野守となったと記されている。




■一族間での争い


東北地方の豪族・清原氏は、奥六郡・山北などを領有し最盛期を築いていたが、その体制をめぐって一族間で対立し家督争いが勃発。


永保3 年1083年、陸奥守として入国した義家はこの内紛に介入、清原氏の嫡子・真衡と対立していた異母弟・家衡と母の連れ子・清衡を打ち破る。その後、真衡が没したため所領は家衡と清衡で折半したが、次に家衡と清衡が対立。義家は清衡を助け、家衡を討って平定する。これを後三年の役という。


後三年の役で功績をあげた義家だったが、この戦は朝廷からの追討命令によるものではなかったため、義家の私戦ということでおさめられてしまった。義家は、朝廷に平定を報告、追討官符(追悼の命令書)を後付けで要請したが、朝廷はこれを却下、私戦だからと恩賞も出さなかった。その上、合戦中は定められた官物の貢納が滞ったことから、義家は陸奥守を罷免されることとなった。


仕方なく義家は、私財を投じて兵士たちを労ったという。この行動が、義家の武家の棟梁としての信望を高める結果となり、東国での源氏勢力を確立することになった。後に源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した際、東国武士たちが力を貸してくれたのも、こうした義家の信望があったからだといわれている。



■置き文について


源氏そしてその嫡流の足利家に伝わる有名な伝承として、二つの「置文」の話がある。

一つ目は、源義家の置き文。


今川了俊の『難太平記』によれば、義家は「われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」と置文したとあり、義家から七代目の直系にあたる足利家時は、自分の代では達成できないため、「我が命を縮めて、三代後の子孫に天下を取らせよ」と祈願し、置き文(二つ目)を残して自害したという。


鎌倉幕府の後継として世を治めていた北条氏に対し、「我こそが正統の天下人、源氏だ」という源氏嫡流の進む道を後世に示したといえるだろう。


足利家時の三代後、足利尊氏が鎌倉幕府の北条氏打倒に立ち上がり天下を目指したのは、家時から三代後の子孫としてその置文を見たからだという。今川了俊も、その置文を見たと記している。


その後、義家の子孫である足利尊氏は、源氏の嫡流として天下をまとめ室町幕府を建て、現代まで続く足利氏を繁栄させていく。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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