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足利義氏 あしかが よしうじ 


No.33


【足利義氏】

あしかが よしうじ

Ashikaga Yoshiuji


源姓足利氏が飛躍をしていく基礎を築いた重要なキーマン。執権の北条氏を補佐し、鎌倉幕府の永続を強く支えた。


【別称・通称】正義(改名・法名)

【官位】従四位下/左馬頭/武蔵野守/三河守護/陸奥守

【生年】文治5年(1189年)

【没年】建長6年(1255年)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血族】河内源氏義国流足利氏(源姓足利氏)

【在所・所領】下野国足利

【墓所】栃木県足利市/法楽寺

【由縁の場所】鎌倉/足利

【家系・系譜】

父:足利義兼

母:北条時子(北条時政の娘)

妻:北条泰時の娘

子:吉良長氏、足利泰氏、吉良義継

兄弟:畠山義純、桃井義助




■源姓足利三代当主


源姓足利氏第三代当主。

八幡太郎源義家→義国→義康→義兼→義氏と続く源氏の嫡流。

(藤姓足利については、No.27足利忠綱の章を参照)


剛勇でもあり、思慮深さも持つ武士だったといわれている。

三代で絶えた鎌倉幕府に変わって、北条氏は、源頼朝の同族である名門足利氏と姻戚を通じてこれを巧みに懐柔、索制し、足利氏の権門と勢力を味方にしながら、次々と政敵を倒し、野望を実現した。


源頼朝の室で尼将軍といわれた北条政子と、その生家の北条氏が当主北条早雲を中心に執権として幕府の実権をにぎると、北条氏は有力御家人による評定衆など合議制を採用し、貞永式目などを定め執権政治をゆるぎないものとした。




武士としての活躍


足利義氏の父の足利義兼の頃の所領は、現在のほぼ足利市全域から佐野市、館林の一部を含んだ広さになっていた。


義氏は、幕府創業期の功臣、実力者たちが北条氏の策謀にかかって滅亡していくのを横目に、あえて北条側につき、その大きな戦力となった。


建保元年1213年、和田義盛の乱では、義盛の子で華々しく奮戦した猛将・朝比奈義秀と幕府政所の庭先で一騎打ちに及び、互いに譲らず、称賛を浴びたという。


承久3年1221年、承久の乱では北条時房、泰時と共に東海道の大将軍として京都へ出陣、宇治川での戦いで戦功を挙げた。


武功を認められ、左馬頭、正四位下となり、上総国(千葉県)、三河国(愛知県)の守護職に任じられ、関東の宿老とよばれ、その所領は十七か国に及ぶ広大なものとなった。

特に東西をつなぐ東海道の要である三河を治めたのは、その後の足利氏発展の重要な要素となった。



三河国(愛知県)


三河は、長男の長氏(1211~1290年)を始祖とする吉良氏の本拠で、仁木、細川、今川、一色ら有力一族の原点ともなり、足利に次いで第2の拠点として発展していった。


三河は、鎌倉と京を結ぶ東西交通の要衝であり、両地点から近くて遠い絶妙な位置。後に鎌倉幕府を倒した子孫・足利尊氏も、その地の利を活用することになる。



晩年について


仁治3年1241年、52歳で出家。

下野国足利荘に法楽寺(足利市本城)を創建し、鑁阿寺(ばんなじ)(同市家富町)の伽藍整備にも尽力するなど、足利地域の文化醸成にも大きく関わった。


※間違えやすい後世の同姓同名人に、今回の足利義氏から数えて14代目の子孫で古河公方第五代の足利義氏(1552〜1583)がいる。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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