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【第25話】知られざる北条義時の黒星!? 宇都宮頼綱かばった小山朝政との攻防(2022年12月23日 投稿)




水野先生コラム:25回目

ライター:『鎌倉殿と不都合な御家人たち 「鎌倉殿」の周りに集まった面々は、トラブルメーカーばかり?』(まんがびと)『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌



1205年(元久2年)、宇都宮頼綱に謀反の疑いがかかります。追討命令を受けた小山朝政はこれを拒否し、北条義時との駆け引きが続きます。結局、小山朝政は北条義時の圧力をはねつけ、宇都宮頼綱をかばい通しました。執権・北条氏が次々と有力御家人を粛清していく鎌倉時代の中でも極めて珍しい事件です。あまり知られていませんが、北条義時に黒星をつけたのが小山朝政だったのです。





■ 突然の宇都宮頼綱追討命令

小山朝政が、宇都宮頼綱追討命令を受けたのは1205年(元久2年)8月7日。「宇都宮頼綱が謀反。一族郎党を率いて鎌倉に向かっている」との噂が鎌倉を駆けめぐり、北条義時や源頼朝の政治ブレーンだった大江広元、有力御家人・安達景盛(頼朝の側近・安達盛長の嫡男)が集まって緊急会議を開いていた北条政子の邸宅に小山朝政が呼び出されました。

朝政は追討命令を拒否。

「宇都宮とは親類関係であり、追討に応じるのは思いやりがないではありませんか。ほかの人に命じてください。ですが、朝政は謀反には同意しておりません。(もし、本当に宇都宮頼綱が攻めてくるならば)防戦には尽力します」

有力御家人が攻め寄せるとなれば相当な緊急事態。鎌倉の危機に関する公的な命令に対し、私的な親類関係を理由に断ったのです。



■北条VS.小山 13日間の神経戦

この年は6月に畠山重忠の乱があり、閏7月には、北条義時が、畠山つぶしを主導した父・北条時政を追放します。畠山つぶしの陰謀の主役は時政の後妻・牧の方とされた「牧氏の変」です。この事変では源氏名門・平賀朝雅が誅殺されます。朝雅は北条時政の娘婿。時政と牧の方の娘を妻としていました。

実は、宇都宮頼綱は平賀朝雅と同じ立場。正妻は牧の方の娘でした。父を追放した北条義時もさすがに命を奪うことはできず、代わりに牧の方の意向で動くかもしれない宇都宮氏の強大な戦力を恐れたのかもしれません。

宇都宮頼綱追討命令を拒否した小山朝政は、頼綱の弁明書に自身の書状も添えてかばいます。最後は頼綱が家臣60人とともに出家。8月19日、鎌倉に到着した頼綱は将軍・源実朝にもとどりを提出。北条義時には面会を拒否されますが、屈辱にこらえ、低姿勢を通しました。

追討命令から13日目の決着。小山朝政は、北条義時との神経戦を勝ち抜いて宇都宮頼綱をかばい通しました。火中の栗を拾って義時に対抗しながらも他家、自家ともに守った勝因はひとえに武力衝突を回避した点に尽きます。

軍事的衝突になれば、御家人の多くは理屈抜きに北条氏に味方します。敗れ去った後で、ことの是非を主張したところで後の祭り。低姿勢を通しながらも非を認めず、つけいるすきを与えなかった小山朝政の知略、胆力、交渉力は北条義時より1枚も2枚も上手だったのです。


■生き残った小山氏、宇都宮氏

小山氏と宇都宮氏は、小山朝政の母・寒河尼が宇都宮氏出身という関係があります。なお、通説では寒河尼は朝政の継母とされますが、実母とみる考え方もあります。この点は、 【第6話】2万騎の大軍よりも頼朝喜ばせた小山母子参陣 などをご参照に。

宇都宮頼綱は小山政光の猶子(養子)でした。それこそ小山朝政が頼綱をかばった要因です。関係としては義兄弟ですが、年齢は20歳程度離れており、むしろ朝政が養父代わりとなって頼綱の養育に関わったかもしれません。頼綱は宇都宮氏の正統な跡継ぎで他家に養子となる必要はないのですが、父・宇都宮業綱が病弱だったこともあり、武家の棟梁としての養育に小山氏が一役買ったのでしょう。

危機を乗り切った宇都宮氏、小山氏は鎌倉時代を通じて有力御家人の地位を保ちます。北条氏との関係もむしろ良好で、婚姻を通じて関係を結びます。

小山氏、宇都宮氏は紛れもない鎌倉時代の勝ち組なのです。

(この事件については拙著『小山殿の三兄弟』で小説にしています)


【次回のコラムも乞うご期待!】


▼前回【第24話】のコラムを見る▼


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