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藤原清衡 ふじわら きよひら


【藤原清衡】

ふじわら(の)きよひら


藤原秀郷の子・千晴直系の子孫で、四代続いた奥州藤原氏の初代当主。

数奇な運命の中から平泉文化を生んだ。


【別称】清原清衡 平清衡 

改名:藤原清衡→清原清衡→藤原清衡

【生年】天喜4年1056年 

【没年】大治3年1128年

【時代】平安後期

【氏族・血族】

陸奥国藤原氏 

奥州藤原氏 初代

【父】

父:藤原経清(藤原秀郷の子孫) 

養父:清原武貞

母:有加一乃末陪(安倍頼時の娘)

兄弟:刈田経元、経光 義兄:清原真衡、異父弟:清原家衡

妻:正室:清原氏の娘  

継室:清原氏の娘

継々室:信夫佐藤氏の娘  

継々々室:北方平氏  側室?:安倍氏の娘

子:惟常(家清)、基衡、正衡、清綱、娘(佐竹昌義室)

養女:徳姫(岩城則道室)

【在所・所領】奥州平泉

【在位・官位】陸奥国奥六郡 陸奥押領使 正六位上

【墓所】平泉町 中尊寺


数奇な運命の中から平泉文化を生んだ秀郷の末裔。

奥州平泉を拠点としており、厳密には関東武士とは言えないかもしれないが、父:藤原常清は藤原北家藤原秀郷の流れであり、外すことができない一人。



■生まれについて


奥州藤原氏は「清衡」「基衡」「秀衡」「泰衡」と続いたが、秀衡の治世に源義経を匿ったため源頼朝と対立、秀衡の死後、泰衡の代に頼朝軍に責められ滅亡した。

奥州平泉を拠点としており、厳密には関東武士とは言えないかもしれない。


清衡は、陸奥国(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)を治めた藤原秀郷五代の孫・藤原経清と奥六郡(陸奥国の胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡)を治めた俘囚長・安倍頼時の娘(娘の有加一乃末陪)の間に生まれる。



■不運な運命から奥州最大の勢力へ


父の藤原経清は、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に、「経清六奥」(六奥は陸奥の意)と名前が見えていることから、当時においても、藤原氏の一族の係累に連なる者として中央の藤原氏からも認められていたようだ。


経清は、前九年の役では安倍氏に味方したが、その安倍氏が敗れ共に没した。この時七歳だった清衡は、敗将の嫡男であったため処刑される運命だったが、母の有加一乃末陪が敵将である清原武貞と再婚、連れ子の清衡も清原武貞の養子となり処刑をのがれた。

その後に起きた後三年の役は清原氏の私闘とされ、清衡に対して何の恩賞も官位の賞与も無かったが、清衡は一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。

時に寛治元年1087年、清衡32歳の事である。




■中尊寺造営へ


複雑な血族の多い奥州の地であったが、「前九年の役」「後三年の役」と生き抜き、実父の姓である藤原に姓を戻し、奥州藤原氏の祖となった。

その後清衡は、都の藤原氏と交誼を深め、奥羽の統治者としての地位を築き、11世紀末、磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設を始める。中尊寺の造営や広大な町筋など壮大な中世都市平泉の基盤をつくり、奥州藤原氏四代100年の栄華の平泉文化の基礎を築いていく。また海外との貿易にも着手し、経済基盤の安定かも進めていく。

大治2年1127年、金銀螺鈿が豪華な金色堂の落慶。

大治3年1128年、清衡は、当時としては長命の73歳で没した。

中尊寺供養願文として知られる文書では、清衡は自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現している。



■清衡の豆知識


平泉の中尊寺金色堂には、現在も藤原四代「清衡」「基衡」「秀衡」「泰衡」が眠っている。

現代になり、金色堂に納められた遺骸を調査した結果、四代はすべて直系で矛盾しないことが確かめられた。清衡の血液型はAB型で、顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で鼻筋が通り、身長は159cm、手の形は小さく華奢。体形は痩せ形。レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮が見られ、脳出血、脳栓塞、脳腫瘍などによる半身不随であったと見られ、発症時期は1117年~ 1119年頃ではないかと推測されている。没年齢は歯の状態から70歳以上と見られ、史料の没年齢と矛盾はないという。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。




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