芳賀高名 はがたかな
No. 40
【芳賀高名】
はがたかな
Haga Takana
清原氏の名門武士団の当主で宇都宮公綱に仕えた名将。益子氏とともに「宇都宮に紀清両党あり」といわれた。
【別称・通称】髙名〜直山禅可(法名)
【官位】従五位下/左兵衛尉
【生年】正応4年1291年
【没年】応安5年1372年
【時代】鎌倉時代後期〜南北朝時代
【氏族・血族】清原氏〜芳賀氏
【在所・所領】芳賀御前城〜真岡城〜飛山城
【墓所】不明
【由縁の場所】
【家系・系譜】
父:芳賀高久(宇都宮景綱の次男)
兄弟:岡本富高
子:高貞 高家
■芳賀氏について
系図によれば、芳賀氏は天武天皇の子である舎人親王を始祖とする清原氏が本性で、子孫の清原高重が下野国に配流になり、その子孫が芳賀に住み着き、芳賀氏を名乗るようになったといわれている。その後、高重の子孫にあたる範高が宇都宮宗綱の郎従になり、以後益子氏と共に宇都宮氏の両翼となった。(紀清両党)
芳賀高名の父の高久は、主君宇都宮氏第七代景綱の子で、その後芳賀氏の養子となった。
■宇都宮氏との関係
高名は、初め宇都宮公綱に仕えて鎌倉幕府の楠木正成追討に参加、天王寺の戦い・千早城の戦いでの幕府軍の苦戦にかかわらず奮戦して武名を挙げる。
宇都宮公綱は、鎌倉幕府滅亡後建武政権に従い政権崩壊も南朝方についていたが、高名は公綱に対する反発から策を講じて公綱を排除、嫡子氏綱を擁立して宇都宮氏を北朝方に転じさせる。このため、南朝側の反感を買って暦応4年/興国2年1341年には居城の飛山城を攻め落とされている。
しかし、観応2年/正平6年1351年の薩埵峠(さったとうげ)の戦いでは、足利尊氏に味方して勝利を決定づけ、合戦後に成立したいわゆる薩埵山体制において、主君氏綱は戦功によって上野・越後両国の守護に任じられた。
上野越後の両国には復権を狙う上杉氏、新田氏の勢力が存在し、高名が率いる宇都宮軍はそうした勢力の鎮圧に尽力した。ところが、鎌倉公方足利基氏は父・尊氏が没すると、父が討伐対象にした上杉憲顕を復権させるべく働きかけ、貞治元年/正平17年1362年に宇都宮氏綱は越後守護職を解任されて上杉憲顕が守護に復帰した。これに反発した芳賀氏一族は、上杉氏の軍勢に対して抵抗した。
翌年、越後に入った上杉憲顕が、足利基氏の命により関東執事に復帰するために鎌倉に向かうことを知った高名は、途中の上野板鼻で憲顕を討ち取ろうとするが失敗、武蔵岩殿山・苦林野で基氏の追討を受けて敗れ去った。
この事件は宇都宮氏による鎌倉府への反抗とみなされ、宇都宮氏綱は上野守護も解任され、基氏による討伐を受けて降伏した。
■『太平記』
『太平記』によればこの時、宇都宮氏綱は「高名の此間の挙動、全く我同意したる事候はず(高名の先の行動は私は全く同意した覚えはない)」と述べたとされている。
上杉憲顕の復権という目的を達成し足利基氏は、それ以上宇都宮氏綱の責任を追及することはなく、高名が宇都宮氏のために責任を負う形で退くことになった。
■『紀清両党』
宇都宮氏は鎌倉時代に鎌倉幕府から強大な軍事力を持つ存在とみなされ、度々重用されるほどにまでになっていた。その宇都宮氏の家中の精鋭として高く知られた武士団で、東国武士団の武勇を代表する存在として名高い。
紀清両党の「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏からであり、それらの一族で構成されている。
成立期は不明だが、文治5年に起こった奥州合戦では、益子正重、芳賀高親が宇都宮朝綱に従い戦功をあげており、源頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られた。このことが後世まで芳賀・益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となったことが確認されている。
名将の楠木正成も「宇都宮氏は坂東一の弓矢とりで、その両翼たる芳賀氏、益子氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わない」と評したといわれる。
以後も紀清両党は、宇都宮氏の筆頭武士団として主君を支えた。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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