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比企尼 ひきのあま


No.63


【比企尼】

ひきのあま

Hiki no Ama



源頼朝にとっては孤独な伊豆流人時代の20年間を支え続けた最大の支援者。



【別称・通称】不詳

【官位】不詳

【生年】不詳

【没年】不詳

【時代】平安末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血族】比企氏

【在所・所領】比企郡

【墓所】妙本寺

【由縁の場所】埼玉県比企郡、比丘尼山、妙本寺


【家系・系譜】

父:不詳  

母:不詳  

夫:比企掃部允  

側室:不詳

兄弟:不詳

子:朝宗、能員猶子)、丹後内侍安達盛長の室)、川越尼川越重頼の室)、三女伊東祐清平賀義信



夫は「藤原秀郷」子孫の名門・比企掃部允遠宗。

鎌倉幕府を支えた13人の御家人(鎌倉殿の13人)の一人である比企能員の義母。





■夫は京の官職に就いていた実力者


夫の比企遠宗は藤原秀郷九世の子孫で、武蔵国比企の名門、比企家の当主で本姓は藤原遠宗。

治めていた領地が武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡あたり)であるため、比企の姓を名乗った。

この武蔵国比企のあたりは、上州・越後や下野・蝦夷から坂東の南部へつながる街道が通る重要な地域で、そこの治世を任されたということは、当時の世情を考えると中央からも信頼された人物だったと思われる。

また、遠宗は、掃部允(かもんのじょう)という、朝廷や宮中において各種行事や宮殿の設備管理の責任者という重要な官職にあった。役目柄、通常は京に在住していたようで、平治元年1159年、平治の乱で源義朝が敗れ、嫡男・頼朝が伊豆に配流(流罪)になった際、妻の比企尼とともに京から領地の武蔵国比企郡に移ったといわれる。

夫・遠宗の死後、比企尼は、頼朝の流人生活が終わるまでの20年間仕送りを続けたといわれ、頼朝を支え支援するために中央の官職を離れ、自国に戻ったのではないだろうか。



■鎌倉殿を育て教育した乳母「比企尼」と秀郷流の一門


源頼朝の父・義朝が、源氏の惣領(跡継ぎ)としての頼朝を育て、教育するのにあたって選んだ乳母は4人とも5人ともいわれる。

その5人とは、「寒川尼」、「比企尼」、「山内尼」、「三善康信の母」、「摩々尼」で、その内の「寒川尼」、「比企尼」、「山内尼」は、藤原秀郷流の名門の正室たちである。(5人目の「摩々尼」は「山内尼」と同一人物ではないかともいわれている。)

このことは、頼朝の父・義朝が、源氏の惣領としての頼朝を育て教育するのに、「藤原秀郷」の流儀を求めたということである。

さらに比企尼にとっては甥で、その後養子となる比企能員は、二代将軍頼家の乳母父(めのとぶ=仮の父として育てる)で、頼家の妻は能員の娘・若狭局である。

加えて、比企尼には3人の娘がいて、それぞれが頼朝の配下の名門武士に嫁ぎ、頼朝を支えさせた。

長女の丹後内侍(たんごのないじ)は小野田盛長(のちの安達盛長)に、次女の川越尼は川越重頼に、三女は伊東祐清(いとうすけきよ)、祐清亡き後は、源氏の名門、平賀氏の当主・平賀義信に嫁いだ。




■仲が良かった比企尼と頼朝・政子夫妻


頼朝の治世が安定してきてからは、頼朝と政子が比企尼を訪れて、楽しく一時を過ごしたこともあったといわれる。

比企の一族が、幾重にも深い縁で結びついているところを見ると、当時は、北条氏ではなく比企氏こそが、頼朝一家と最も近しい一族だったといえるだろう。

そんな比企氏は、あまりにも頼朝と近い存在となり、鎌倉政権の中心に入り込んだがゆえに、北条氏の策略で排除されてしまう。


※参照:坂東武士図鑑 No.16 「比企能員」


もし比企氏が北条氏との勢力争いに勝っていたら、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役は、北条義時ではなく比企能員や嫡男の時員だった・・・かもしれない。



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※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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