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北条 政子 ほうじょう まさこ


No. 62


【北条政子】

ほうじょう まさこ 

Hojo Masako



源頼朝亡き後の鎌倉幕府を父の北条時政とともにまとめあげ、その後の武士社会の基盤を築いた尼将軍と呼ばれる女傑。



【生年】保元2年(1157年)

【没年】嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血族】伊豆国の豪族、北条時政の長女

【由縁の場所】小田原市 伊豆の国市 鎌倉市


【家系・系譜】

子:頼家、実朝、大姫、三幡。

兄弟姉妹:宗時、義時、時房、阿波局、時子など



■運命を変えた源頼朝との出会い


北条政子は、桓武平氏高望流といわれる伊豆の豪族・北条時政の長女として生まれた。

政子が20歳の頃、平治の乱で敗れた源義朝の三男・源頼朝が伊豆に配流となる。その監視役が、政子の父・北条時政で、時政が大番役で京に赴任し在京中に、政子は頼朝と恋仲になったといわれる。

二人がどのように出会ったのかはよくわかっていないが、一説には、後に鎌倉幕府を補佐していく安達盛長が二人を取り持ったともいわれる。



■地方豪族の娘から一躍政権のトップへ


政子の評価は分かれることも多いが、夫である鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝が死に、二代将軍に長子頼家が就き、政子も出家して尼となり尼御台と呼ばれるようになってから後の政子が鎌倉幕府を主導する力量は、誰もが評価するところである。

特に有名なのが、承久3年に起こった後鳥羽上皇との対立「承久の乱」で、上皇挙兵の方を聞いて動揺した御家人たちに対しての演説である。

政子は、動揺する御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として

「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。

『承久記』によると、政子自身が鎌倉の御家人を前に演説を行ったという。

このことを契機として鎌倉武士の結束が高まり、最終的に幕府軍は19万騎の大軍となり、後鳥羽上皇は事実上降伏、隠岐島に流された。上皇が武士によって島流しになる、というこの前代未聞の出来事は、時代が天皇・貴族から武士へと変わる象徴と言える。そのきっかけを作ったのが政子の演説である。

室町時代の公卿で関白左大臣でもある学者の一条兼良は、「この国は姫の国という。女が治めるべき国と言える」と、政子をはじめ女帝の例を引いて語った、といわれる。「吾妻鏡」は、神功皇后が生まれ変わって国を治めたようだ、と高く評価している。



■いろいろな見方がある政子の評価


江戸時代にまとめられた「大日本史」でも評価され、新井白石や頼山陽なども評価している。

ただ、嫉妬深さが批判の対象になることも多く、淀殿や日野富子と並ぶ悪女といわれることもあった。

政子の嫉妬深さは、後継・世継ぎ対策でもあった一夫多妻が当然だった当時としては、異例であったといわれる。

頼朝は、生涯に多くの女性と通じたといわれている。当時の武士や貴族は、複数の妻妾の家に通うのが一般的で当たり前のことで、政子の父・時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませているが、頼朝は政子の嫉妬を恐れたためか、半ば隠れるように通っている。京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識であり義務でもあったと言え、社会的にも許される行為であったが、政子はそんな夫の行動を容認できなかったようである。

頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。

「政子」という名は、建保6年1218年に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたもので、それより前の名前は不明である。

嘉禄元年1225年、政子は病の床に付き、死去した。享年69歳。

戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺に、実朝の胴墓の隣にある。



■対抗勢力を排除、鎌倉幕府の実質的トップ?に


頼朝亡き後の将軍「鎌倉殿」には彼の嫡男・頼家が就くが、その独断専行体制や将軍専制に対する御家人たちの不満の蓄積などもあり、僅か三ケ月で頼家が持つ訴訟の直裁権を取り上げられてしまう。

そして新たに設けられたのが「有力御家人十三人の合議制」であり、時政は次男・義時と共にその13人の中に加わるなど、幕政の中枢を担う事となった。 (鎌倉殿の13人)

建仁3年1203年8月、頼家が俄かに危篤に陥ると、それを好機と見た時政は、比企能員を自邸に招いて謀殺、さらに軍勢を差し向け比企一族を討滅に追い込んでいる。(比企能員の乱)

当時、北条時政の権力の基本は、頼朝と北条政子のあいだに生まれた頼家と実朝の存在が大きかったが、同様に比企能員も頼家に自分の娘を嫁がせていて、一幡と公暁という子がいた。つまり比企能員の立場も有力で、比企の孫も将軍候補だったのである。

時政は、第二代将軍頼家をやめさせると伊豆修善寺へ押し込め、その弟の実朝を第三代将軍に擁立した。

建仁3年1203年10月、政所別当に就任。併せて「執権」に任ぜられたとも言われており、これにより時政は幕府における専制を確立した。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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