源 頼光 みなもと の よりみつ
No.5
【源 頼光】
みなもと よりみつ
Minamoto no Yorimitsu
源氏の第三代当主で厳密には坂東武士ではない。源氏が坂東へ進出する契機を作った。大江山の酒呑童子退治でも有名。
【改名】文殊丸〜頼光
【諱】頼光「らいこう」と読まれる。通称としても、頼光(らいこう)と呼ばれることが多い。
【時代】平安時代中期
【生誕】天暦2年(948年)
【死没】治安元年(1021年) 享年74
【官位】従四位下 春宮権大進、春宮亮、内蔵頭、昇殿、備前守、美濃守、但馬守、伊予守、摂津守、大内守護
【主君】藤原兼家〜道長〜頼通
【氏族】清和源氏流摂津源氏系多田源氏 摂津源氏と多田源氏の祖
【家系】
父母:父・源満仲 母・源俊(みなもとのすぐる)の娘
兄弟:頼光、頼親、頼信、頼平、頼明、頼貞、頼範、頼尋、源賢(賢快)、藤原頼親室、源敦室、藤原道綱室、 養兄弟:孝道(義弟)
妻:藤原元平の娘、平惟仲の養女、慶滋保章の娘など
子:頼国、頼家、頼基、永壽、頼昭、源済政室、大江公資室、藤原道綱室、源資通室
養子:頼平、頼明、頼貞、頼範、孝道、相模
化け物退治のエキスパートで「らいこう」と呼ばれる人気者
■源頼光の生い立ち、「朝家の守護」
摂関家との接近によって地位を固めていった父満仲のやり方を受継ぎ、永延2 年988年摂政藤原兼家の 60歳の祝いに馬 30頭を贈ったといわれる。また妻を亡くした藤原道綱を婿として一条の自邸に住まわせた。
長和5年1016年、摂政の藤原道長の邸が焼失、同邸の改築に際し、頼光は、自邸内の調度一切を贈って道長を喜ばせた。その後道長の権勢が増すと、側近となった頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになる。
■化け物退治の名物武将
頼光は武芸一本の武将なのではなく、一族を率いる頭領として様々な物事に精通している人物だったと言えるだろう。
武士ではあるが名門貴族「源氏」一族の貴族でもある頼光だが、『今昔物語集』や『御伽草子』など後世の創作物においては、貴族的な面はあまり描かれず、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)討伐や土蜘蛛(つちぐも)退治の説話など知られているように「化け物退治の名物武将」という意味合いが付加されて、武将として側面が強調されている。
■大江山鬼退治
現代まで伝わる頼光像は、ほとんどがその鬼退治の要素が多く描かれている。
寛仁2年1018年、一条天皇より大江山の夷賊追討の勅命を賜ると、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)四名と、嫡男・源頼国、名将と誉れ高い藤原保昌ら総勢50数名を引き連れて、摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行った。これが「大江山の夷賊討伐」「酒呑童子退治」として後世まで伝わる伝承となる。
大江山は平安京(京都)の北、天橋立と福知山城の中間あたりにある山で、「土蜘蛛」(つちぐも)と呼ばれる中央政府に従わない野蛮人・盗賊のがいて「鬼の一族」と呼ばれていた。首領の名は「酒呑童子」(しゅてんどうじ)といい、茨木童子、星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子など多くの鬼を従えていたという。
頼光らは、出家には手を出さないといわれる酒呑童子を欺くため、山伏の姿に変装し酒呑童子に接近、接待を受けると、手土産の酒に眠り薬入れて飲ませて成敗したと伝わっている。
頼光が酒呑童子の首をはねた刀は、「童子切安綱」(どうじきりやすつな)と呼ばれ、古来より天下五剣に数えられる名刀で、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠も、この童子切安綱を所持したといわれる。現在は、国宝として東京国立博物館に所蔵されている。
この武勇により頼光は、「御伽草子(おとぎそうし)」などで、化け物・妖怪退治の第一人者と言われるようになり、「大江山鬼退治」は、能・歌舞伎としても伝わり、現代の映画・ドラマなどにも登場している。
また、頼光は歌人としても優れ、『拾遺和歌集 (しゅういわかしゅう)』以下の勅撰和歌集に3首の和歌が入集している。
■頼光の最期
治安元年1021年8月29日、この世を去る。74歳といわれ、当時としては長命であった。
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※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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