那須与一 なす よいち
No.29
【那須与一】
なすのよいち
Nasu no Yoichi
源平合戦、屋島の戦いで扇の的を射貫いて一躍アイドル武将になった弓の名手。源氏を武勇で支えた那須氏の武将。
【別称】那須宗隆(むねたか)〜那須資隆(すけたか)
はじめ宗隆と名乗り、家督を相続した後は、父の名の資隆を継いだと伝えられる。
【生年】嘉応元年? 1169年
【没年】文治5年? 1189年
【氏族・血族】
藤原北家長家流 那須国造流
那須氏の居城神田城(栃木県那須郡那珂川町)で生まれた。
【父】那須資隆(先代)
【妻】新田義貞娘
【兄弟】
森田光隆(太郎)/佐久間泰隆/芋淵幹隆/福島久隆/資之(五郎)/滝田実隆/沢村満隆/堅田義孝/稗田朝隆/千本為隆(十郎)/頼資?/宗久
【所領】下野国那須郡
【由縁の場所】栃木県神田城址(塩谷) 香川県高松市屋島 那須温泉神社
■那須与一の生い立ち
那須氏第二代当主。
那須氏の居城神田城(栃木県那須郡那珂川町)生まれ。はじめ宗隆と名乗り、家督を相続した後は、父の名の資隆を継いだと伝えられる。系図では兄が多いが、最終的に那須氏二代当主となる。
与一という名は、十余る一、つまり十一男を示す通称で、名前ではない。
兄の一人・為隆を除く9人の兄達がみな平氏方に付き、為隆も後に罪を犯したため、与一が11男でありながら那須氏を継ぐ事となった。源氏時代になって、平家方に付いて各地に逃亡していた兄達を許、し領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたといわれる。
生没年からみると、屋島の戦い(1185年)の時は15〜6歳、亡くなったのは20歳前後と、若くして活躍し早逝したと思われる。
同時代に与一を称した源氏方の武士として、佐奈田義忠と浅利義遠がおり、彼らと合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。
■与一は「弓の名手」
幼い頃から弓が上手く、兄達の前でその腕前を見せ父の資隆を驚嘆させたといわれている。
弓の腕前を上げようと修行を過ぎたため、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている。
治承4年1180年、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経と出会い、父・資隆が兄の為隆(十郎)と宗隆(与一)を源氏方に従軍させる約束を交わしたといわれる。
治承・寿永の乱において、為隆と共に源氏方につき、源頼朝の弟の義経軍に従軍した。
元暦2年1185年屋島の戦いで、平氏の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなどの功績を挙げ、頼朝から五カ国に荘園を賜った。
那須氏の当主の通称は代々「那須太郎」であったが、江戸時代以降、那須資景など那須氏の歴代当主は通称として「那須与一」を称するようになったのは、この与一の功績と名声にあやかってのことと思われる。
【平家物語・源平盛衰記「屋島の合戦」扇の的の話】
源平合戦で、源義経によって讃岐国屋島(現高松市)に追い詰められた平家は、源氏の軍が意外と少ないことに気付くと、船を岸に寄せて弓矢で攻め始め、激しい戦いになった。日暮れとともに戦いが静まった時、平家が思わぬ行動に出た。
沖の舟に美しい女性を乗せ、竿の先に扇を留め高く掲げたのである。
これは「竿の先の扇の的を射よ」という挑発であった。
源氏としては、いくら休戦中とはいえ無視はできず、また誘いに乗ってこれを外せば、源氏の名に傷がつく。なかなかの平氏の策であった。
義経は腕の良い武士を探し、はじめ畠山重忠に的を射るよう命じた。しかし重忠はこれを辞退し、その代わりにと下野国の武士の那須十郎を推した。ところが十郎も戦の傷が癒えないから、とやはり辞退し、弟の那須与一を推挙した。
抜擢された那須与一は、否応無くこれを引き受けることとなった。
与一は愛馬にまたがり海に入ると、弓を構えて「南無八幡大菩薩。日光の権現様、宇都宮大明神、那須の温泉大明神、この一矢を扇に命中させ給え!」もし射損じたら腹をかき切って自害せん!」と八幡神と宇都宮大明神に祈り、一心に矢を放った。
その気持ちが通じてか、矢は見事に扇の柄を射抜き、空中に舞い上がった扇は春風に揺られ、そっと海に落ちた。
この様子を見た源氏の皆はもちろん、平家の兵士たちも、敵ながら天晴れと舟の端を叩いて感嘆したという。
このような逸話の残る屋島の戦いの後、平家物語はクライマックスの「壇ノ浦の戦い」に突入する。
与一は、この逸話以外の詳細はあまり知られていないが、「扇の的」で名を残したことは確かである。
平家物語・源平盛衰記の名場面として知られる「扇の的」。後世この物語を読んだ人たちは、与一の活躍に興奮したことであろう。
この話は、歌舞伎や能、謡曲などを通して後世にも伝えられ、永く現代にまで演じられている。
▼屋島の段 平家物語-抄訳(2022年5月2日)
■現代に伝わる名場面
平家物語・源平盛衰記の名場面として知られる「扇の的」。この後、この物語を読んだ人たちは、与一の活躍に興奮したことでしょう。この話は、歌舞伎や能、謡曲などを通して後世にも伝えられ、永く現代にまで演じられている。
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※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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