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大関高増 おおぜきたかます 


No. 53


【大関高増】

おおぜきたかます

Ozeki Takamasu


戦略家で武勇に優れた那須氏配下の有力武士。不明な点も多いが、下級武士から名をあげ黒羽城主(大田原)となる。


【別称・通称】熊満(幼名)/高増/安碩/斎未庵(号)

【官位】従五位下/右衛門佐/美作守

【生年】大永7年(1527年)

【没年】慶長3年(1598年)

【時代】戦国時代〜安土桃山時代

【氏族・血族】平氏繁盛流/大田原氏〜大関氏

【在所・所領】大田原黒羽

【墓所】大田原市光厳寺

【由縁の場所】大田原市黒羽城

【家系・系譜】

父:大田原資清  

母:金丸河内守娘 

養父:大関宗増

兄弟;福原資孝、大田原綱清  

妻:宇留野義元娘

子:春増、清増、資増 他




元来は、下野国(現・栃木県)の豪族・大田原氏の生まれだが、父・大田原資清の政略で大関宗増の養子となり、大関家の家督を継いで白旗城主となった。


大関氏は、平国香を祖とする平氏の直系で、国香の五代後の平重義を初代とする名門小栗氏の家系で、その後も幕末まで存続し、明治維新後は子爵となった。




那須氏との関係


永禄3年1560年の小田倉の戦いでは、白河結城氏・蘆名氏の攻撃にあっていた那須資胤を援護したが、戦に苦戦した事を非難され主家の那須氏と対立した。

その後は大田原氏や上那須氏と共に佐竹氏に通じた。


以後、上那須衆と那須氏の間で戦いが繰り返され、永禄9年1566年には佐竹氏・下野宇都宮氏も加わって資胤を攻めたが、資胤に退けられ、翌年、佐竹義重と共に那須氏と戦うが、再び退けられた。


那須資胤との戦いに敗れた大関氏と大田原氏は、永禄11年1568年に資胤と和睦し、高増は剃髪し主家に反抗した罪を謝した。


その後は那須七騎の筆頭的な人物として主家を支え、那須資晴の代には那須氏における最有力者として権勢を誇った。



大関氏のその後


天正4年1576年居城を白旗城から黒羽城に移した。

天正6年1578年次男・清増に家督を譲ったが実権は握り続けた。

天正18年1590年の小田原合戦では、主家の那須氏が遅れ改易されたのに対し、いち早く参陣し一万石の所領を安堵され、長男・晴増にも三千石が与えられ、大関氏は一万三千石の大名となった。


※高増の曽孫に当たる江戸時代の第三代黒羽藩主は同姓同名。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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