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大関高増 おおぜきたかます 

最終更新: 1月15日


File No. 45

【大関高増】

おおぜきたかます

takamasu-ohzeki


優れた戦略で家名を存続させた黒羽城主。


【生年】大永7年1527年

【没年】慶長3年1598年

【系譜血族】平氏繁盛流

【氏族】大田原氏〜大関氏

【主君】那須資胤〜資晴〜豊臣秀吉

【所領】大田原黒羽

【墓地】大田原市光厳寺

【由縁の場所】黒羽城


■那須氏との関係

父・大田原資清の政略で大関宗増の養子となり、大関家の家督を継いで白旗城主となった。


永禄3年(1560年)の小田倉の戦いでは、白河結城氏・蘆名氏の攻撃にあっていた那須資胤を援護して防戦に努めたが、戦いの後、合戦に苦戦した事を非難され主家の那須氏と対立。


その後、高増は大田原氏ら上那須氏と共に佐竹氏に通じた。

以後、上那須衆と那須氏の間で戦いが繰り返され、永禄9年(1566年)には佐竹氏・下野宇都宮氏も加わって資胤を攻めた。しかし資胤の奮戦に退けられ、翌年、佐竹義重と共に那須氏と戦うが、再び退けられた。


那須資胤との戦いにいずれも敗れた大関氏・大田原氏は、永禄11年(1568年)に資胤と和睦し大関高増は剃髪し主家に反抗した罪を謝した。

その後は那須七騎の筆頭的な人物として主家を支え、那須資晴の代には那須氏における最有力者として権勢を誇った。


天正4年(1576年)居城を白旗城から黒羽城に移し、天正6年(1578年)に次男の清増に家督を譲ったが、その後も実権は握り続けた。

天正18年(1590年)の小田原征伐では、主家の那須氏が遅参し改易されたのに対し、いち早く参陣し一万石の所領を安堵され、長男・晴増にも三千石が与えられ、大関氏は一万三千石を領する大名となった。


平氏の名門小栗氏を祖とする大関氏は、その後も幕末まで存続し、明治維新後は子爵となった。


曽孫に当たる江戸時代の第3代黒羽藩主は同姓同名である。


※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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