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佐野宗綱 さの むねつな 

最終更新: 1月13日


File No. 50

【佐野宗綱】

さの むねつな 

munetsuna-sano


佐野氏16代当主で唐沢山城主。


【生年】永禄3年1560年

【没年】天正13年1585年

【系譜血族】秀郷流佐野氏

【所領】下野国佐野

【墓地】栃木市皆川城内町金剛寺

【由縁の場所】唐沢山神社(唐沢山城址)



■活躍について

戦国の群雄割拠の世、父・佐野昌綱を継承し反上杉を貫く。

数度にわたる上杉軍の攻撃を、宗綱の知略と唐沢山城の堅固な城郭が防ぎきった。

配下に鉄砲の供出を義務付けるなど、当時の関東では遅れていた鉄砲の普及を推奨するなど革新的な政策も施した。


はじめ北条氏と同盟を結んでいたが、北条氏との同盟を破棄して常陸国の佐竹氏と手を結び、北条氏と戦った。


上野国に滝川一益が進出すると一益に臣従したが、一益撤退後、北条方の長尾顕長との戦で、敵の挑発に乗って突出戦い、鉄砲で討ち取られたといわれている。

宗綱には子に男子がいなかったので、叔父(弟?)の天徳寺宝衍(てんとくじほうえん佐野房綱)などの佐竹氏派と北条氏派に分かれて対立したが、これを知った北条氏は、その機に乗じて唐沢山城を占拠してしまった。


佐野氏は北条氏から北条氏忠を養嗣子として受け入れ、17代当主佐野氏忠として佐野家を継がせた。



■唐沢山城について

関東七名城の一つ。

佐野市街北方の標高247mの唐沢山山頂を本丸として、その一帯に曲輪を配置した山城。堅固な作りで、戦国時代に上杉謙信の攻撃を10度にわたり受けたが、撃退して謙信を悩ませた。


古城には珍しく高い石垣が築かれ跡があり、他にも、大手枡形、土塁、堀切、土橋、などの跡が、しっかりと残っている。


現在は、本丸跡に築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐沢山神社がある。

山頂から南を見渡せば、関東平野を広く東西に、そして南方へ全般を一望でき、その要衝としての位置関係が今でも明確に感じられる。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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