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足立遠元 あだちとおもと


No. 12


【足立 遠元】

あだち とおもと 

adachi-tomoto


源頼朝を早くから支え、鎌倉幕府の成立に寄与した源頼朝の側近中の側近。鎌倉幕府十三人の一人。


【別称】四郎 遠基

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期 【生誕】不詳 1130年代前半? 【死没】不詳 【官位】左衛門尉 右馬允 【幕府】鎌倉幕府 十三人の合議制 【氏族】藤原北家足立氏 【父】藤原遠兼  母:豊島康家の娘 【兄弟】信家 遠衡 【子】元春 元重 遠光



■足立遠元の生い立ち


足立氏の始祖で、武蔵国足立郡(現在の東京都足立区から埼玉県北足立郡)を本拠とする。

遠元の父・藤原遠兼が武蔵国足立郡に定住し、遠元の代から「足立」を名乗った。

安達盛長(坂東武士No.13)は、父・藤原遠兼の弟で年下の叔父にあたる。




■源頼朝と足立遠元

平治元年1159年の平治の乱で、源頼朝の父・源義朝に従い、源義平率いる十七騎の一人として戦いその実力を認められる。


鎌倉幕府成立の要因ともなった治承の乱・寿永の乱(1180~1185)においては、治承4年1180年に挙兵した義朝の子・源頼朝より事前に命を受け、その配下で頼朝の信任を得て武蔵国足立郡を本領とし所有権を得た。これは、頼朝による東国武士への本領所有権を渡す最初の事例であった。


元暦元年1184年公文所が設置されると、5人のメンバーの1人に選ばれた。

建久元年1190年に頼朝が上洛した際も同道し、さらに奥州合戦の功として頼朝に御家人10人の勲功(くんこう)が与えられた際も、その1人に入り左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられた。


頼朝の死後、二代将軍・源頼家の時に成立した十三人の合議制の1人に、叔父の安達盛長とともに加わった。


公家(朝廷に仕える人)・武家(武士の家筋)に渡り幅広い縁戚関係を築き、娘の一人は後白河院近臣藤原光能に嫁ぎ、京の人脈とも深い関係を持ち、別の娘は畠山重忠および北条時房にそれぞれに娘を嫁がせ男子を儲けている。


武士の出でありながら公家として公文所寄人(役所の職員)に選ばれるなど、坂東武士の中にあるものの、軍事以外の行政事務を取り扱うことに長けていて稀有な人物であった。




■鎌倉幕府十三人の合議制


NHK2022年の大河ドラマに決まった「鎌倉殿の十三人」は、 鎌倉幕府の二代将軍・頼家を支えた十三人の御家人の物語。

【鎌倉幕府十三人の合議制】とは?

初めての「武家政権」として源頼朝によって創始された鎌倉幕府だが、正治元年1199年初代将軍・源頼朝が急死する。その時長男の頼家は、未だ18才の若輩であった。


それまで将軍家の惣領として何不自由なく育てられた頼家には、有力な御家人をまとめ率いる力量などなかった。母の北条政子や祖父の時政、そして側近たちにとって、頼家のただ単に二代将軍という名の権力を持っての行動は、黙って見過ごすことができないほどだった。


北条時政と政子は、このままでは幕府組織の運営は成り立たないと見て、有力御家人十三人が集まり会議が開かれた。そして、幕府の政治(以下「幕政」とする)はこの十三人の御家人たちが合議制で運営することに決定された。表向きは若い頼家を補佐するということだが、実際は頼家の権力を取り上げることが目的であった。


頼家が二代将軍になってわずか3ヶ月後の事であった。


頼家は幕府の最高権力者ではなく、単なる幕府のシンボルとなってしまった。


ただ、この幕政において十三人全員で合議され事例はなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す制度で頼家を補完する機能を果たしていた、とする見解もある。


この幕政は、十三人の御家人の中から死亡者などの欠員が出て2年をもたずして解体され、その後鎌倉幕府も権力抗争の果てに崩壊し、源家の嫡流(本家の家筋)は断絶。その後は北条義時の嫡流が治めていく事となる。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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