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【第26話】「百人一首」成立に関わった宇都宮頼綱=蓮生 スゴい財力と定家との絆(2022年12月27日 投稿)




水野先生コラム:26回目

ライター:『鎌倉殿と不都合な御家人たち 「鎌倉殿」の周りに集まった面々は、トラブルメーカーばかり?』(まんがびと)『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌



1205年(元久2年)、執権・北条義時に謀反の疑いをかけられ、出家した宇都宮頼綱は法名「蓮生(れんしょう)」と名乗り、僧侶、歌人としての後半生を歩みます。そして当時の一流歌人・藤原定家との交流を深め、「百人一首」の誕生に大きく関わることになります。




■ 「歌ウマ一家」京、鎌倉に並ぶ宇都宮歌壇

蓮生(宇都宮頼綱)が出家したとき、跡継ぎ泰綱はまだ4歳。泰綱の異母兄に上条時綱、横田頼業がいますが、蓮生は、あくまで牧の方(北条時政の後妻)の娘である正妻の子・泰綱を嫡男とし、時綱、頼業は分家を起こさせました。苗字はそれぞれ地名に由来します。

蓮生に代わって幕府に出仕したのは弟の塩谷朝業(しおのや・ともなり)です。3代将軍・源実朝との和歌の交換は、贈られた梅の花の香りが漂う喜びを詠み、まるで恋人どうし。和歌の名手なのです。もともと源氏系だった塩谷氏の養子となり、宇都宮氏が北部地域にも影響力を持っていたことが分かります。川崎城(栃木県矢板市)を築城。朝業をモデルにした、ともなりくんは塩谷町ではなく、矢板市のキャラクターです。

塩谷朝業だけでなく、宇都宮氏は一族そろって優れた歌人。当時、宇都宮歌壇は京、鎌倉に並ぶ三大歌壇でした。その集大成が一族を中心に186人の875首を収録した『新〇(しんまる)和歌集』。変な書名ですが、「新式和歌集」とするはずが、なぜか「式」の字が脱落し、「〇」が当てられているのです。


■定家が選定、蓮生の山荘に「百人一首」原型

宇都宮氏は宇都宮城主であると同時に宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の神官。地域を支配する武力と宗教的権威を兼ね備えた神官領主です。そして、たいへんな財力がありました。蓮生の祖父・宇都宮朝綱は平家に焼き討ちされた東大寺の復興の際、観音像再建費用を負担。国家事業の一部を請け負う程の財力です。

蓮生の京の屋敷は錦小路富小路にありました。富小路は平安京のほぼ東端ですが、さらに東(平安京の外)に六波羅があって、マチナカといった地域です。平安京は西より東の方が開けていました。蓮生とは別に妻(牧の方の娘)も京・吉田に自邸があり、さらに蓮生は京西部の善峰寺に住み、嵯峨に山荘も持っていました。そして、藤原定家の別荘も近くにありました。

蓮生は山荘の障子和歌を定家に依頼。定家は和歌の選定だけでなく、揮毫(きごう)までしています。これはかなり珍しいことで、定家の自筆の写本はあっても、色紙や障子和歌の自筆はほかに確認できません。これは能書家(書道の名人)の仕事で、当時では世尊寺行能(藤原北家)がよくやっていました。

この障子和歌のため藤原定家が選定した101首が「百人秀歌」となります。「百人一首」の100首と97首が共通します。蓮生の山荘の障子和歌が「百人一首」の原型なのです。なお、障子和歌は選定された101首の一部が実際に揮毫されたとみるのが現実的です。


■「百人秀歌」にない後鳥羽上皇の和歌

「百人一首」には「百人秀歌」にない後鳥羽上皇、順徳上皇の和歌が入っています。後鳥羽上皇と順徳上皇は承久の乱(1221年)で鎌倉幕府に敵対しました。蓮生は1205年(元久2年)に北条義時に謀反の疑いをかけられましたが、その後、鎌倉に復帰し、承久の乱のときは有力御家人として鎌倉に留まり、一族も出陣しています。また、その後の宇都宮氏と執権・北条氏との関係も悪くありません。

藤原定家は蓮生に依頼された障子和歌の段階では、鎌倉幕府と敵対した後鳥羽上皇、順徳上皇の和歌を外していたのです。定家が蓮生の立場を配慮したことが分かります。いわゆる忖度(そんたく)です。

また、定家自身が揮毫したことからも蓮生との特別な関係がうかがわれます。定家の嫡男・為家は蓮生の婿。蓮生は定家、為家父子にたびたび大きな仕事を発注して経済的にサポートしていたと考えられます。



【次回のコラムも乞うご期待!】


▼前回【第25話】のコラムを見る▼


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