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益子貞正 ましこ さだまさ 


No. 44


【益子貞正】

ましこさだまさ 

Mashiko Sadamasa


宇都宮氏配下の益子氏の当主で、南北朝時代に活躍した宇都宮氏にあって「宇都宮氏に『紀清両党』あり」といわれた。


【別称・通称】紀貞正

【官位】出雲守

【生年】不詳

【没年】不詳

【時代】鎌倉時代後期〜南北朝時代

【氏族・血族】本姓は紀氏

【在所・所領】下野国芳賀郡益子邑

【墓所】?

【由縁の場所】栃木県益子町


【家系・系譜】

父:益子貞重

兄弟:勝重、落合祐光、増山勝状



益子氏宗家第十一代当主。下野国芳賀郡益子邑を本貫とする西明寺城主。



益子貞正について


越後守(えちご の かみ)益子貞重の次男ながら嫡男(最初の男の子)となる。

家系は孝元天皇を祖とする紀氏の流れで、大納言紀長谷雄(または征東大将軍紀古佐美とも)の流れを汲む紀貞隆の次男・益子正隆にはじまる益子氏。本姓は紀氏。

正式な名乗りは紀貞正(きの さだまさ)。下野国宇都宮氏の配下の武士団「紀党」の棟梁。




下野国の武士団「紀党」の棟梁


益子貞正の主君・宇都宮公綱は、初め南朝方にいたが、その後公綱の子・氏綱は、父と一線を画して北朝の足利尊氏に従った。


貞正は、宇都宮氏の有力武士団「紀清両党」の一翼であり、主君の宇都宮氏綱に従い、北朝方へと転じた。貞正は、自らも宇都宮氏配下の武将として、常陸国を拠点に勢力拡大を図る南朝方と対立していた。


関東では、上野国における源氏の棟梁新田氏が有力な南朝方として活動し北朝方に圧力を加えており、一方、常陸では南朝の征夷大将軍・興良親王の配下である北畠親房楠木正家らが、宇都宮一族の小田氏、常陸平氏などを味方につけ、勢力を持っていた。


当時、西明寺城などの貞正の所領は、南朝方の公卿・春日顕時により攻め込まれ、一時は奪占領されてしまう。南朝方の春日軍の主力は小田勢であったが、小田氏の家祖・八田知家は益子氏を母として生まれた遠い縁戚であり、肉親同士の争いだったといえる。


正平6年/観応2年1351年北朝方の対立は混迷を極め、室町幕府内で台頭してきた足利将軍家の執事高師直と対立した尊氏の弟・足利直義が南朝方に下り、北朝方は分裂状態に陥った。(観応の擾乱 かんのう の じょうらん


太平記』によると、益子貞正は主君・宇都宮氏綱に従い、尊氏方に属して直義方と薩タ峠で対峙したとある。直義方の総勢は10万、その内の北関東における直義党勢力1万が宇都宮軍と対峙していた。


宇都宮氏の軍勢は、総大将の宇都宮氏綱をはじめ、紀党の益子貞正、宇都宮一族の氏家氏、清党の芳賀貞経と他を加えて1500の軍勢であった。これに、佐野氏・佐貫氏ら援軍に加わるがその総勢2000から3000。1万とも1万2000ともいう大軍を誇る桃井軍との兵力差は歴然であった。


緒戦は桃井軍が宇都宮軍を攻撃し優勢だったが、その後形勢は逆転、益子氏を筆頭とする宇都宮軍は、三倍以上の大軍を打ち破ったという。


以後も南北朝の対立は続くが、その後の宇都宮氏には3万もの軍勢が集まるようになったといわれ、この戦いにより関東において北朝方が優位な地位を確立することとなった。




■『紀清両党』 (※No.40芳賀高名の章を参照)


鎌倉時代、宇都宮氏は幕府から強大な軍事力を持つ存在とみられ、度々重用される存在であった。中でも「紀党」の益子軍と「清党」の芳賀軍の『紀清両党』は、その中核の精鋭とした武士団として広く知られた存在で東国武士団の武勇を代表する存在として名高い。


『紀清両党』の「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏からそう呼ばれる。


文治5年の奥州合戦では、益子正重、芳賀高親が宇都宮朝綱に従い戦功をあげ、源頼朝から源氏の白旗を贈られた。このことが後世まで芳賀・益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となったことが確認されている。名将の楠木正成も「宇都宮氏は坂東一の弓矢とりで、その両翼たる芳賀氏、益子氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わない」と評したといわれる。


以後も紀清両党は、宇都宮氏の筆頭武士団として主君を支えた。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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