【第22話】秀郷流の名コンビ 東北で王国を築いた奥州藤原氏と信夫佐藤氏(2022年12月9日 投稿)
水野先生コラム:22回目
ライター:『鎌倉殿と不都合な御家人たち 「鎌倉殿」の周りに集まった面々は、トラブルメーカーばかり?』(まんがびと)『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌
奥州合戦(1189年)で滅亡した奥州藤原氏と、その重臣・信夫(しのぶ)佐藤氏はともに藤原秀郷の子孫「秀郷流藤原氏」です。平家全盛期に独立王国ともいえる奥州の繁栄を築きながら不思議なほどあっけなく滅亡しました。しかし、奥州藤原氏の血筋は実は宇都宮で生き残っていたという意外な関係もあります。
■ 重臣の首で奥州の繁栄守る…えげつない主従の絆
奥州藤原氏のルーツはほかの秀郷流藤原氏の武家同様、秀郷の子・千常です。ただ、系図では千常の兄・千晴の流れです。いずれにしても、前九年合戦(1051~62年)で陸奥の豪族・安倍氏に協力して斬首された藤原経清(つねきよ)の子・清衡(きよひら)が奥州藤原氏初代。後三年合戦(1083~87年)で源義家とともに清原氏に復讐。平泉を拠点に「清衡―基衡―秀衡」3代100年の栄華の基礎を築きます。
信夫佐藤氏は陸奥・信夫郡(福島県福島市)を拠点にした一族。『古事談』にある佐藤季春(すえはる)と2代当主・藤原基衡の主従関係を示すエピソードは強烈です。
季春は基衡の意向に従って陸奥守・藤原師綱の信夫郡調査を妨害、けっこうな騒動になります。国司の調査を妨害したのは朝廷への反逆。基衡が困っていると、季春はさらりと提案します。
「こうなることは最初から分かっていました。殿は知らなかったことにして、実際に妨害した私の首を国司に差し出してください」
基衡は陸奥守・師綱にその通り弁明しますが、さすがに重臣・季春の命は惜しいので、自分の知らないところで妻が勝手にやっているテイで、砂金1万両(375グラム)持たせて命乞いをさせます。しかし、陸奥守・師綱はとんでもない堅物で砂金に目がくらむことはなく、とうとう季春は斬首。自身の首を引き換えに国司の介入を阻止した季春と藤原基衡の主従の絆の強さに感動するか、すごすぎて嫌悪を感じるかは人それぞれです。また、莫大な経済力を背景にワイロ攻勢で国司を骨抜きにして操り、それが通用しないときは家臣の首を差し出して半独立状態を守る最盛期の奥州藤原氏の凄みやしたたかさもなかなかです。
季春は系図類に名がありませんが、佐藤基治(もとはる)の先代とみられています。
■義経をめぐって一族が空中分解? 最後はあえなく滅亡
佐藤基治は、源義経に従って源平合戦で活躍した継信(つぐのぶ)、忠信(ただのぶ)の佐藤兄弟の父です。佐藤継信は屋島の戦い(1185年)で義経を守ろうと矢面に立ち、平教経の強弓を受け、戦死。『平家物語』の感動場面です。その弟・佐藤忠信は1186年(文治2年)、潜伏先の京で鎌倉勢の襲撃に遭い、奮戦むなしく討ち死に。これは『義経記』で義経のおとりになったという美談になり、さらに歌舞伎「義経千本桜」などの名作に発展します。
兄弟の父・佐藤基治は1189年(文治5年)8月8日、阿津賀志山(あつかしやま、福島県国見町の厚樫山)の戦いで大いに奮戦し、戦死。ところが、『吾妻鏡』に10月2日、捕虜として赦免される記事があるのは矛盾するところです。
3代当主・藤原秀衡は源頼朝に追われた義経を匿い、しかも自身の子息たちには義経に軍事指揮権を委ねて頼朝からの侵略を守れと言い残します。しかし、1187年(文治3年)に秀衡が死去すると、わずか2年で奥州藤原氏は滅亡します。結局、この遺言をめぐって4代当主・藤原泰衡と兄弟たちの対応が割れ、強敵に一丸で当たることができなかったのです。
秀衡の子息は、長男・国衡、次男の当主・泰衡、三男・忠衡、四男・高衡、五男・通衡、六男・頼衡。泰衡は頼朝の圧力に屈して1189年(文治4年)閏4月30日、衣川館を襲撃し、義経を自害に追い込みます。泰衡は6月26日、義経派の忠衡、通衡も攻め殺します。それでも頼朝は奥州攻めを進め、泰衡からすれば、「話が違う」と泣きたいところでしょう。
奥州合戦が始まり、国衡は鎌倉勢との激戦で戦死。防衛ライン崩壊で泰衡は平泉を捨てる決断をしますが、逃亡中に家臣の河田次郎に裏切られ、みじめな最期を迎えます。残った高衡は降伏。この後もしぶとく生き残ります。頼衡は衣川館攻めの前に兄・泰衡に誅殺されたとされますが、実在を疑う説もあります。
■宇都宮に残った奥州藤原氏の血統…樋爪氏の伝承
JR宇都宮駅近くの上河原通りにある三峰山神社の小さなほこらの中に2基の五輪塔があり、樋爪俊衡、季衡(すえひら)兄弟、または樋爪季衡、経衡(つねひら)父子の墓と伝えられています。樋爪氏は奥州藤原氏の分家。樋爪俊衡は藤原基衡の実子という異説もあります。
樋爪一族は奥州合戦の敗戦で捕虜となりました。『吾妻鏡』によりますと、1189年9月15日、樋爪俊衡と季衡はそれぞれ子息とともに降伏。八田知家に預けられます。俊衡は60歳以上の高齢でひたすら法華経を読み、源頼朝の印象はかなり良く、本領没収を免れます。
10月19日、俊衡一族が戦勝祈願の御礼として宇都宮二荒山神社に預けられます。いけにえか神職への奉仕と解釈されています。12月6日に流罪先が決まり、下野に季衡、相模に師衡(俊衡長男)、経衡、駿河に兼衡(俊衡次男)となっています。
同様に捕虜となり、相模に流罪された藤原高衡(秀衡四男)は1201年(正治3年)の城長茂の乱に参加。いつの間にか梶原景時派になっていました。一方、樋爪一族にも生き残りがおり、宇都宮と大いに関係します。伝承では、樋爪季衡は宇都宮脱走を図って斬首。それが樋爪氏の墓の言い伝えにつながります。しかし、中には宇都宮氏家臣になった者もいるとされています。
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