【第7話】源平合戦勃発…登場した小山氏親族(2022年4月9日 投稿)
水野先生コラム:7回目
源平合戦は1180年(治承4年)、以仁王(もちひとおう、後白河法皇の第3皇子)の唐突な挙兵によって始まります。以仁王の挙兵を支えたのが源頼政。いや、挙兵の黒幕、張本人といっていいかもしれません。
源頼政はこのとき77歳の老武者。祖先は、酒吞童子討ち、土蜘蛛退治の源頼光。頼政も鵺(ぬえ)退治をした妖怪バスターズの家系?もともと平清盛の協力者で、平治の乱(1159年)では清盛に味方して源義朝(頼朝の父)と戦いました。清盛の推薦で源氏武士としては異例の従三位に出世、「源三位」と呼ばれます。(公家源氏では三位の官位を持つ貴族は多数います)
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■源頼政挙兵に従った小山政光の弟
清盛には恩もある源頼政でしたが、後白河法皇と対立する平家をけしからんと思ったのか反旗を翻すのです。清盛は「もう少しおとなしくしていれば平穏な往生を遂げられたものを……」と驚きます。『平家物語』では、頼政の跡継ぎ・仲綱が愛馬を平宗盛(清盛の三男)に無理やり献上させられた上に、ばかにされる事件があり、これが挙兵のきっかけになっていますが……。
『平家物語』では自害した源仲綱の首を敵に渡さないため隠すなど最後まで踏みとどまって戦いました。その後の消息は不明。このとき戦死したとしか考えられません。
なお、茨城県古河市に、源頼政をまつる頼政神社があります。頼政の首を敵に渡さないため、持って逃げた家来がこの地で葬ったという伝説があります。この家来が下河辺行義なのかどうか……。古河は下河辺氏の重要拠点でした。
■頼政と頼朝の連絡役?下河辺行平登場
消息の跡絶えた下河辺行義に代わって歴史に登場するのが、嫡男・下河辺行平(しもこうべゆきひら)です。父が小山政光の弟なので小山3兄弟の従兄弟です。
『吾妻鏡』冒頭、挙兵を呼びかける以仁王の令旨のお使いとして、伊豆の頼朝のもとに源行家(頼朝の叔父)がやって来ます。その次に伊豆に来るのが下河辺行平の使者。源頼政の挙兵準備を伝えます。下河辺行平は源頼政の指示で頼朝との連絡役を担っていたのです。
源頼政は、頼朝と示し合わせて東西同時挙兵、あるいは全国の源氏の一斉蜂起を考えていたのではないでしょうか。そのための以仁王の令旨であり、特に頼朝と坂東武士に期待をかけていたのかもしれません。また、そのようにして平家を慌てさせるとか、平家の主力軍が東国へ向かったすきに京で兵を挙げるとか、それくらいしか勝ち目はなかったはずです。
ですが、これは計画倒れに終わり、以仁王の令旨が早々に発覚してしまいました。源頼政の構想は不発に終わりましたが、源平合戦の発端となったその動きに下河辺行平は深く関わっていたのです。
■秀郷流の笠標、先駆けの心意気示す
その後、下河辺行平は源頼朝の家臣として活躍します。
頼朝暗殺を狙ったテロリストの逮捕とか、「武士の鑑」畠山重忠のピンチを救う場面とか、とにかく、かっこいい活躍の場が数多くあるのですが、それはおいおい紹介できるかと思います。
下河辺行平も藤原秀郷の子孫として、その武勇を受け継いでいますので、まずは象徴するエピソードを一つ紹介します。奥州藤原氏攻めの準備が進む1189年(文治5年)7月8日。下河辺行平は頼朝の鎧兜を用意し、この日、持参しました。
兜の後ろに笠標(かさじるし)が付けてあります。これは、敵味方を区別する目印の小旗で、鎧の袖に付けても、腰に付けても笠標。その場合、「袖の笠標」とか「腰指の笠標」といいます。
「これは袖に付けるのが通例ではないか」
頼朝に問われて、下河辺行平が答えます。
「これは先祖・秀郷のときの吉例です。武士が一番乗りを目指すとき、敵は(こちらの)名乗りによって先陣を駆ける者が誰なのかを知り、味方は後ろからこれ(笠標)を見て先頭を駆ける者が誰なのかを知ります。このようなものを進上するとき、家のやり方で行うのが古くからの慣例です」
頼朝は感心し、納得しました。
下河辺行平の知名度はかなり低いかもしれませんが、武勇だけでなく、何回か頼朝を感心させる受け答えをして、それもまた面白いのです。この「鎌倉殿」ブームのうちに、ぜひ知ってもらいたい武将のナンバーワンです
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