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【第9話】頼朝挙兵あざ笑った山内首藤経俊(2022年5月7日 投稿)



水野先生コラム:9回目

ライター:『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌



小山3兄弟のように、源頼朝にいち早く味方についた藤原秀郷の子孫の坂東武士は数多くいますが、秀郷流藤原氏の中で紆余曲折あったのが山内首藤経俊(つねとし)です。父と兄は源義朝(頼朝の父)に従って平治の乱(1159年)で戦死し、母・山内尼は頼朝の乳母(めのと)。頼朝の期待も大きかったはずです。






■双六を打ちながら「富士山と背比べ」


ところが、山内首藤経俊は頼朝への加勢を拒絶しました。『吾妻鏡』によると、頼朝の使者として各地を回った安達盛長が報告しています。


「相模では(頼朝の)命令に従い、味方になるという者は多い。ところが、波多野義常と山内首藤経俊は呼びかけに応じないばかりか、いくつもの悪口さえ言っている」

何を言ったのでしょうか。


気になる悪口の中身は『源平盛衰記』に書いてあります。山内首藤経俊は弟と双六をしていて、使者の方を見向きもせずに言い放ちます。


「これ聞いたか、弟。この上なく困窮すると、しようもないお考えをお持ちになるようだ。頼朝殿の身の丈で平家に対抗しようというのは富士の高嶺と背比べし、ネコの物をネズミが狙うようなもの。ああ、恐ろしい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


『源平盛衰記』では、山内首藤俊綱(平治の乱で戦死した経俊の兄)の子・滝口三郎利氏となっていますが、このとき山内首藤氏当主で滝口三郎を名乗る該当者は経俊。悪口の主は山内首藤経俊なのです。


随分と上から目線の言いよう。「旧主君とはいえ、今は力のない流人(犯罪者)。命令される筋合いはない」と見限ったのか、「平家全盛の世に挙兵とは無謀。うかれる者たちに担がれてはなりませんよ」と現実を指摘したのか……。オチは「南無阿弥陀仏」ですから、やはりバカにしていたのでしょう。






■合戦で頼朝を射る 山内尼の命乞い



結局、山内首藤経俊は1180年(治承4年)8月、石橋山の戦いで大庭景親の軍に加わり、頼朝に敵対しました。平家の世は動かしがたいと思ったのです。しかし、ここでは大敗した頼朝がその後、勢力を盛り返し、大庭軍は解散。経俊も頼朝に降伏します。


11月、経俊斬首が内々に決まったと聞き、山内尼が頼朝のもとに駆け込みました。先祖・首藤資通が源義家に仕えるなど代々、源氏に忠義を尽くしてきたと訴えます。「経俊が大庭に味方した罪は大きいとはいえ、これは平家の耳に入ることをはばかってのこと。石橋山で陣を張った者(頼朝に敵対した者)も多くが許されています。経俊もどうして……」


頼朝は泣き崩れる山内尼の前に鎧を置きます。石橋山の戦いで山内首藤経俊が射た矢が袖に突き立ったまま保管してあった頼朝の鎧。矢には名もしっかりと書いてありました。「滝口三郎藤原経俊」。ルーツは藤原秀郷なので本姓は「藤原」。正式名として「藤原経俊」と記したのです。


山内尼はあれこれ言うこともできず退出しました。頼朝は結局、山内首藤経俊を許し、経俊はこの後、御家人として活躍します。許すにしても、ひとこと言わずにいられないのが頼朝の心情、あるいは頼朝のねちっこさです。


▼源平合戦 一連の流れ



■「山内」なのか「首藤」なのか妙な苗字


ところで「山内首藤」とは妙な苗字です。「山内」なのか「首藤」なのか。「山内首藤滝口三郎経俊」との呼び名で記されることもあります。


「山内」と「首藤」と「滝口」が苗字……。そんなわけはありません。

まず「滝口」は「滝口の武士」という役職に関わる呼称。「左衛門尉」(左衛門府の3等官)とかと同じようなものです。御所警護の武士を詰め所近くの水路の落ち口にちなみ滝口の武士と呼びます。


問題は「山内首藤」という苗字。秀郷流藤原氏の中で、主馬寮長官・主馬首(しゅめのかみ)に就いて「主馬首+藤原」で「首藤」を称した一族がその後、相模・鎌倉郡山内荘を拠点とするようになって「山内」も苗字とします。つまり苗字が2つ。山内経俊であり、首藤経俊でもいいという理屈になります。


少し話をずらして、奥州藤原氏や信夫(しのぶ)佐藤氏の例を見てみます。

これらは現代からみた呼称。藤原秀衡の一族を京の藤原氏と区別し、「奥州の藤原氏」という意味で奥州藤原氏と呼びますが、姓はあくまでも「藤原」です。奥州藤原氏の家臣・信夫佐藤氏も陸奥・信夫郡(福島県北部)にちなんだ説明的呼称。自らは「信夫佐藤」ではなく「佐藤」と名乗ります。


この理屈でいけば、「山内首藤」は「山内という土地の首藤氏」の意味ですが、同時代の史料にも「山内首藤」と出てくるので、当時の人も「山内首藤」と認識していたかも……。ただ、これは記述する場合で、呼び方はやはり、「山内殿」だったと思いますが。





【次回:捕虜の身で頼朝を叱った秀郷の子孫とは?】




▼前回【第8話】のコラムを見る▼

















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