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長沼宗政 ながぬまむねまさ 


No.25

 

【長沼宗政】

ながぬまむねまさ

Naganuma Munemasa


鎌倉幕府を支えた小山三兄弟の二男。藤原秀郷の流れをくむ強大な武士団のひとつで真岡の長沼氏初代当主。


【別称・通称】五郎

【官位】下野御厨別当/淡路守護

【生年】応保2年(1162年)

【没年】仁治元年(1241年)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血族】藤原北家秀郷流小山氏〜長沼氏

【在所・所領】下野国長沼荘

【墓所】栃木県真岡市長沼

【由縁の場所】栃木県真岡市長沼


【家系・系譜】

兄弟:小山朝政、吉見朝信、結城朝光、久下重光、島田政照

(養兄弟)、吉見頼経、宇都宮頼綱

子:時宗



小山氏の初代・小山政光の次男で、長沼氏、そして後の皆川氏の始祖。

長沼氏は、藤原北家秀郷流小山氏の流れの強大な武士団で、室町時代には鎌倉公方・足利満兼から屋形号を与えられ、関東八屋形のひとつに数えられた。




小山氏について


藤原秀郷を祖とする小山政光が治めた小山氏を中心に、その子達から派生する長沼氏、皆川氏、吉見氏、結城氏など強大な勢力を誇ったこの一族は、頼朝の鎌倉幕府を支える有力な御家人として、その存在感は大きい。


頼朝から弓を賜ったことが自慢で、多くの在民たちにもそれを示したといわれる。

「当家に伝わる武勇はすべて自分が行った」と公言、強く自慢したといわれる。

三代将軍・源実朝を、蹴鞠をしたり武芸に劣り女のようだ、と言ったり、しばしば激昂する気性の荒い人物で言葉も悪かったと伝えられ、『吾妻鏡』によると、「荒言悪口の者」と評されている。



■ 生涯について


寿永2年(1183年)、野木宮合戦で志田義広を討ち、その後は源頼朝に従って平家追討に出陣した。

文治5年(1189年)9月、頼朝の奥州合戦に随行。

頼朝から信濃国善光寺地頭職を与えられたがのちに改替された。

正治2年(1200年)美濃国大榑荘の地頭職を得る。

建仁3年(1203年)の比企能員の変、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱に北条氏の軍として従い、承久の乱にも従軍した。


その後、摂津国守護職、摂津藍荘地頭職を得る。


更に淡路国守護職、淡路笑原保と上田保地頭職を給与され、国守・守護を兼任して淡路を支配した。淡路国守護職は鎌倉時代末期まで長沼氏に相伝され、貞応2年1223年には淡路の大田文まで作成された。


※この淡路国大田文は、現存最古の大田文として、長沼氏の後裔皆川氏の皆川文書として現代にまで伝えられており、大田文の中で唯一、国指定重要文化財となっている。


寛喜2年1230年に嫡子・時宗に譲った所領は、本領の長沼荘・下野御厨別当職・淡路守護職を始めとして、武蔵国・陸奥国・美濃・美作国・備後国などの諸国に及ぶ広大なものだったという。


仁治元年1241年、下野国長沼荘で死去。享年79歳。当時としては長命だった。




■ 承久の乱


承久3年1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げ、敗れた騒乱。


武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いで、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いである。


結果は、朝廷側の敗北で、朝廷トップの後鳥羽上皇が本来臣下であるあるはずの鎌倉御家人(鎌倉幕府)によって隠岐に配流される、という前代未聞の事件となった。


以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになるなど、幕府主導の政治体制を固めた。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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