結城朝光 ゆうきともみつ
最終更新: 1月13日

File No.21
【結城朝光】
ゆうきともみつ
tomomitsu_yuuki
鎌倉幕府を支えた有力な武士の一人。
One person of the important warrior Samurai who supported Shogunate Government of Kamakura Bakuhu.
【別名】小山宗朝〜小山朝光〜結城朝光
【生年】仁安3年
【没年】建長6年(1168〜1254)
【氏族・血族】
藤原北家秀郷流小山氏〜結城氏
【父】小山政光
【養兄弟】吉見頼経 宇都宮頼綱(宇都宮業綱の子)
【所領】上総国結城
■上総結城氏初代当主
結城家の祖であるため結城朝光が一般に知られた名前であるが、出身の氏名の小山朝光と記されている場合もある。
■活躍について
父が初代の小山氏の2代で兄の小山朝政を中心に、兄弟である長沼宗政がおこした長沼氏・皆川氏と、加えて、母の寒川尼の出身である宇都宮氏とも連携し、広く北関東を統治した。
平氏打倒に挙兵した源頼朝に、かつて頼朝の乳母だった母・寒河尼が引き合わせる。頼朝が烏帽子親(仮の親)となって元服する。
養和元年(1181年)頼朝の寝所を警護する11名の武士の一人に選ばれる。
元暦元年(1184年)木曾義仲を追討する源範頼・義経軍に参加、宇治川の戦いで木曽義仲を打ち破る。
■源氏との関係
源平の戦いでは、壇ノ浦の戦いまで戦いに参加。鎌倉に帰還後は、戦勝報告のため東下した義経を宿に訪ね、頼朝の重要な使者として「鎌倉入りの不可」を義経に伝える。
建久6年(1195年)の東大寺再建供養に頼朝が参列した際、衆徒の間で争いが起こったが、朝光が見事な調停を行い、衆徒達から「いい男で見た目も良く、弁も立ち頭もいい」と称賛された。
■源頼朝の死後
源頼朝の没後、正治元年(1199年)梶原景時の讒訴により窮地に立たされたが、三浦義村ら有力御家人の連名で作成した「景時糾弾訴状」を二代将軍・源頼家に提出、景時の失脚と討滅に大きな役割を果たした。梶原景時の変。
嘉禎元年(1235年)幕府の評定衆の一員となり幕府体制に貢献。
若い時から念仏に傾倒していた朝光は、法然や親鸞に深く帰依し、念願の出家を果たし、結城上野入道日阿と号した。
結城の称名寺を建立。晩年は信仰に生きる日々を過ごす。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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