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結城朝光 ゆうき ともみつ 


No.21

 

【結城朝光】

ゆうきともみつ

Yuki Tomomitsu


鎌倉幕府を支えた小山三兄弟の三男で寒川尼の子。源頼朝が烏帽子親になった弓の名手で結城氏の初代当主。



【別称・通称】小山宗朝/小山朝光/結城朝光

【官位】上野介

【生年】仁安3年(1168年)

【没年】建長6年(1254年)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代中期

【氏族・血族】藤原北家秀郷流小山氏〜結城氏

【在所・所領】上総国結城

【墓所】茨城県結城市浦町/称名寺

【由縁の場所】結城/鎌倉


【家系・系譜】

父:小山政光   

母:八田宗綱(宇都宮氏二代)の娘・寒川尼

兄弟:小山朝政、吉見朝信、長沼宗政、久下重光、島田政照 養兄弟:吉見頼経、宇都宮頼綱(宇都宮業綱の子)

子: 朝広、平方朝俊、寒河時光、山川重光 その他




上総結城氏初代当主


上総結城氏初代当主

結城家の祖であるため結城朝光が一般に知られた名前であるが、出身の氏名の小山朝光と記されている場合もある。


父が、小山氏初代の小山政光で、母が宇都宮市二代の八田宗綱の娘・寒川尼

小山氏第二代当主で長兄の小山朝政を中心に、次兄の長沼宗政がおこした長沼氏・皆川氏と、加えて、母の寒川尼の出身である宇都宮氏とも連携し、広く北関東を統治した。


平氏打倒に挙兵した源頼朝に、かつて頼朝の乳母だった母・寒河尼が朝光を同道して駆けつけ、頼朝と朝光を引き合わせる。


治承4年1180年頼朝が烏帽子親(仮の親)となって元服し、小山七郎宗朝と名付けられた。頼朝は、自分の名の一字・朝を与えたという。(後に朝光と改名した)




活躍について


養和元年1181年、頼朝の寝所を警護する11名の武士の一人に選ばれる。

寿永2年1183年、源頼朝が志田義広が蜂起してから続けていた鶴岡八幡宮の参拝に太刀持ちとして随行、頼朝が志田の裏切りを心配していると、「すでに兄の小山朝政によって滅ぼされているでしょう」と申し上げた。


頼朝は、「この若者の言葉は神のお告げに違いない」と、その通りになったら恩賞を与える約束をしたという。実際に志田逃亡の報告がくると、頼朝の指示により、朝光は志田の所領を預かることになったという。


元暦元年1184年、木曾義仲を追討する源範頼・義経軍に参加、宇治川の戦いで木曽義仲を打ち破る。




源氏との関係


源平の戦いでは、壇ノ浦の戦いまで戦いに参加した。源平の合戦で勝利し鎌倉に帰還後は、戦勝報告のため東下した源義経を宿に訪ね、頼朝の重要な使者として「鎌倉入りの不可」を義経に伝える。


建久6年1195年の東大寺再建供養に頼朝が参列した際、衆徒の間で争いが起こったが、朝光が見事な調停を行い、衆徒達から「いい男で見た目も良く、弁も立ち頭もいい」と称賛された。




源頼朝の死後


源頼朝の没後、正治元年1199年「忠臣は二君に仕えず・・・」と発言、梶原景時の讒訴により窮地に立たされたが、三浦義村ら有力御家人の連名で作成した「景時糾弾訴状」を二代将軍・源頼家に提出し景時の失脚と討滅に大きな役割を果たす。(梶原景時の変)


承久3年1221年の承久の乱では、小山朝永や武田信光らと東山道の大将軍として出陣した。

嘉禎元年1235年幕府の評定衆の一員となり幕府体制に貢献。


若い時から念仏に傾倒していた朝光は、法然や親鸞に深く帰依し、念願の出家を果たし、結城上野入道日阿と号した。


結城の称名寺を建立。晩年は信仰に生きる日々を過ごす。


建長6年1254年2月24日死去。87歳と長命であった。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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