第 2 章
トウタと藤太
児童館の図書室に……渉くんはいた!
今日も一人で「平将門」を読んでいる。
わたしが部屋に入ると、渉くんはこっちをチラッと見てから、また本に目を落とした。
わたしの顔、おぼえてたかな?親せきのおじさんやおばさんは、会う度に「かわいくなった」とか、「美人になった」とかって言うけど、ストレートのミディアムヘアで、太ってるのでも、やせてるのでもない、ごく普通な、どこにでもいそうな外見のわたしを……もし記憶してくれてたなら……。
ついつい意識してしまい、昨日と同じ斜め向かいじゃなく、さらに四つほど離れたイスに座り、家から持ってきた戦国武将ものしり事典をショルダーバッグから取り出す。
すると、昨日渉くんと話してた同じ顔ぶれの男の子たちが、またもや彼の元へやってきた。今度は男子だけでなく、数人の女子もまざっている。彼らは渉くんの周りを取り囲んだ。うちの学校の子は一人もいない。
「渉、芸能事務所のスカウトの話をしたら、みんながお前を見たがっちゃってさ」
一人の男子の言葉に、わたしは驚いた。スカウトって……彼、芸能界に入っちゃうの?わたしは本を読むふりをして、さらに聞き耳を立てる。
「君、ホントにスカウトされたの?」
「ねえねえ、もう少しくわしく聞かせてよ」
目を輝かせる女子たちに、渉くんは気まずそうに頭をかいた。
「スカウトとかじゃなくて……事務所に遊びに来いって言われただけで……」
「へえ〜〜〜」と感心する女子たちに、男子が割って入る。
「渉とは先週アキバでやったゲームのイベント会場で知り合ってさ。『ドラゴンカート』のレアキャラがもらえるってやつ。席が隣同士で仲良くなったんだけど、イベントが終わってからスーツ着た大人が渉に声かけてきたんだよ。来週、事務所へ話を聞きに来いとか言われてなかったか?えーっと、ちょうど一週間経ったから ……今日、今日だ!」
アキバ……秋葉原のことか。この児童館からもそう遠くない。わたしはあんまり行かないけど、人気アイドルユニットの専用劇場や、アニメショップ、ゲームショップが密集してて、「オタクの聖地」なんて呼ばれてる。「ドラゴンカート」は、何年も前からシリーズ化されている大ヒットゲームのタイトルだ。
「うん……まあ……」
「すごいじゃん!それってやっぱりスカウトだよ!」
「テレビとかに出たりするんじゃない ?」
「ぼく、あんまりそういうの興味がないから……まあ、事務所にちょっと顔を出すくらいなら行ってもいいって約束はしたけどさ」
あんまり乗り気でもなさそうに言ってるけど、それでも事務所には行くんだよね。そりゃ芸能界だもの。歌手、俳優、モデル、タレント……どれも華やかで、周りからちやほやされて、もちろんそれなりに苦労はあるんだろうけれど、だれもがなろうと思ってなれる職業じゃない。デビューしたい人なんて、世の中にいっぱいいるんだろうから、話も聞かずに最初からはね付けることもないってのはわかる。
「そういう話なら、親とか保護者とか、同伴じゃなきゃいけないんじゃないの?」
女子の一人が、疑問を投げかける。
「ぼくの両親は仕事でドイツにいて、今はじいちゃん、ばあちゃんと一緒に暮らしてんだ。二人とも昔の人で、けっこう頭がかたいらから、芸能界にはあんまり良いイメージ持ってなさそうだし、心配かけたくないから、ひとまず話を聞きに行くだけなら一人でもいいってことになって……」
ここで、またもや見回りに来た事務局のおばさんのじゃまが入った。
「お話しするなら図書室の外!」と注意されて、渉くんを取り巻く一団はしぶしぶ部屋を出て行った。まだまだこれからってところだったのに!話の続きを聞きたくて仕方なかったんだけど、彼らと一緒にくっついていくのも変だし、ここはじっとしてるしかない。
それに今日は、あんまり長くは児童館にいられなかったんだ。
ママは珍しく会社の仕事を早く終えられる日らしく、夕方には家に帰ってくる。で、フロそうじのお手伝いをするように言われてて、それまでにいつも行く地下鉄駅前のスーパーで新しい洗剤を買ってこなくちゃいけない。
わたしはそれから三十分ほど図書室で本を読んでから、児童館を後にした。
駅前は、オフィスビルや商店が立ち並ぶにぎやかな場所だ。
目標のスーパーまではあと少し。それは、大きな交差点で自転車を止め、信号が赤から青に変わるのを待っている時だった。
ふと何かの気配がして、青信号になってる右横の横断歩道に顔を向けた。
すぐ目の前に、自転車に乗った若い男が迫ってきている!
しかも、その男は右手に持ったスマホに目をやってて、前なんか全然見てない。
このままじゃ、まともにぶつかっちゃう!
あんまり急でドギマギしたせいか、足が動かない。声も出ない。
もうダメだ!思わず息が止まる。
あと数十センチで激突!というその瞬間、横合いからとんできた黒い物が男の顔にへばり付いた。
「わぎゃっ !!!」
悲鳴をあげた男と一緒に自転車は、わたしの横をすり抜けて横転した。
男は「イタタタタ……」とうめき、肩や腰を手でさすりながら苦しそうにしている。車道に転がった彼のスマホは、通過していったトラックのタイヤにひかれてペシャンコになっていた。
周囲の人たちが男のそばに寄ってきて、「大丈夫?」「立てますか?」と声をかけ、騒がしくなった。
気が動転したわたしはその場で体が固まったまま身動きが取れず、立ちすくんだままでいる。
そんなわたしの耳元に、小さな子どもの声が聞こえた。
「あいつのケガはそんなに大したことはない。大げさにわめいてるだけだ。安心しろ」
えっ?だれ?
わたしは後ろを振り向いた。
だれもいない。
わたしよりずっと小さい子どもの声だ。
「わしを探しておるのか?」
また聞こえた!どこ?あたりをキョロキョロ見回すものの、声をかけてきた子はやはりいない。
「どこを見ておる。ここじゃ、ここじゃ」
声がやけに近い。すごく近い。
わたしは、視線を肩の下に落としたとたん、ギョッとなった。
肩から下げてるショルダーバッグのファスナーのすき間から、ヘビだかトカゲだかわかんない、とにかくは虫類みたいな生き物が顔を出して、わたしを見上げてる。その生き物と、視線が合った。
「キャッ!」と思わず小さな叫びを発したわたしは、ショルダーバッグを放り投げ、その場で自転車ごとしりもちをついた。
転倒した男の周りに集まっていた通行人の何人かがわたしに気付き、「どうしたの?」と駆け寄ってくる。
「あ、あのバッグの中に、変な生き物が……」
指をさすわたしの訴えを聞いて、一人のおじさんが地面に落ちているショルダーバッグをおそるおそる手に取り、ファスナーを開けた。
中をのぞき込み、ごそごそと手を入れていたおじさんが、やがてこっちを向いた。
「本とか筆箱とか小物入れとかのほかには、特に何にもないようだけど」
「そんな……確かに変なのがバッグの中に……」
おじさんから手渡されたバッグの中身を全部取り出して見たけれど、確かに何もいない。まさか、あれはわたしの目の錯覚だったのかしら。
だれかが一一九番通報したらしく、サイレンを鳴らして救急車もやってきた。
ぶつかりそうになった男はまだ地面に座り込んでいて、車からおりた救急隊員が「どうしました?」と問いかける。
「あの……顔に突然何かがへばりついて……」
「へばりついた?風で飛んできたチラシとかですか?」
「そんなんじゃなくて、顔にしがみついてきたから、あれは動物だよ」
「鳥?」
「鳥じゃない。羽根なんかなかったように思うし、もっと別の生き物で……」
「じゃあ、その生き物はどこに?」
救急隊員と一緒に周囲を見回す男は、キツネにつままれたような顔で首をひねる。
男の顔にへばり付いた奇妙な物体……それは、わたしも確かに見た。あれは、ショルダーバッグの中にいたのと同じ生き物だったんじゃないだろうか?
でもそんな動物は、もうどこにもいない。
男は救急車に乗せられ、どこかの病院へと運ばれていく。
わたしも気を取り直し、倒れたままの自転車を引き起こした。
訳のわからないまま、サドルにまたがろうとした時、わたしの視線は交差点の対角線上の歩道にくぎ付けとなった。
あれは、渉くん!
隣には、明るい茶髪で、ダークブルーのスーツを着たサラリーマン風の若い男。しゃべってる様子が、どうもチャラチャラしてる。
二人は連れ立って、駅とは反対の方向へ歩いていた。
渉くんは今日、スカウトされた芸能事務所に行くと言ってた。なら、隣の男はそこの社員で、二人はこれから事務所へ向かう途中なんだろうか?
わたしの足は、駅前じゃなく、二人が歩いていく方向へひとりでに向いてしまった。
渉くんが言ってた芸能事務所って、一体どんな会社なんだろう。
渉くんに対する、そして芸能界や芸能事務所に対する好奇心や珍しモノ好きな性格がないまぜになって、買い物のことなんて頭の中からすっ飛んでしまっていた。
わたしは自転車を押し、二人の十メートルくらい後ろをつけていった。こんなことするのは初めて。まるでドラマの刑事や探偵みたい。
だけど、わたしの尾行作戦はたちまち終了した。
二人は、交差点から歩いて数分のビルに入っていったからだ。
五階建ての古い雑居ビル。
ビルの隣にあるコインパーキン グの隅に自転車をとめて、少しの時間をおいてから建物の中に入った。だってすぐに追いかけて、はち合わせしたら困るじゃない。
せせこましい一階のフロアには、だれもいなかった。
エレベーターは、四階で止まっている。
壁にはってあるフロアガイドを見ると、四階には三つの名前が記されていた。
「三橋税理士事務所」「アマンダ・ビューティークリニック」「株式会社ドリームエイジプロモーション」
芸能事務所らしい名前となれば、この中では「ドリームエイジプロモーション」 しか考えられない。
四階まで上がってみようか……いや、こんなストーカーみたいなことするの良くないし……どうしよう……。
すこしの間、一階のフロアを行ったり来たりして迷ってると、エレベーターが動き出した。四階からおりてくる。
わたしは慌てて建物から飛び出し、隣のコインパーキングに戻った。
あ〜〜〜びっくりした。
ホッとしたのも束の間、そこへ現れたのがあの茶髪の男だ!
わたしは、男からは死角になる精算機の裏に隠れた。
ここは車が二十台以上とめられるパーキングで、人はわたしと男だけしかいない。
男はパーキングをながめ回し、だれもいないと思ったのか、スマホで会話を始めた。
男の声は、わたしの耳にもちゃんと届いている。
「あ、会長っすか。はい、竜二です。会長が指名した相羽渉ってガキですが、今日事務所まで一人でちゃんと来ました。今は田宮の兄貴が応対してて、ジュース飲ませてます」
会長?芸能事務所の?それとも別の会社の?とにかくかなりえらい人が渉くんを気に入って、スカウトしたってことなんだろうな。それにしても、彼の名字が「あいば」だってことがわかったのはラッキーだ。「あいばわたる」……か。いい名前だな。
「ええ、親は二人とも同じ物理の研究をしてる学者で、今はドイツの大学に呼ばれて海外赴任したばかりですから、当分日本には帰りません。ガキは一人っ子で、じいさん、ばあさんと こっちで三人暮らしっす」
渉くんのパパとママは、どっちも大学の研究者なんだ〜。彼も二人の血を引いて、運動だけじゃなく勉強とかできそうだもん。それにしたって、この男のしゃべ り方、どことなくガラが悪くて普通のサラリーマンには思えない。だけどわたしがギクリとしたのは、その後に男が発した言葉だった。
「保護者がおいぼれだけなんで、やりやすそうです。段取りどおり、今日は一旦家に帰らせて、明日にでも会長のところへ行かせますよ。住所も押さえてますし、いざとなればガキが外に出た時、人目のつかない場所でさらってくりゃいいんで しょ?」
えっ、なに?この男、何て言った?さらうって言った?
さらうって、つまり、誘かい?
おじいさんと おばあさんだけなら頼りないから、渉くんを誘かいしやすいってこと?
でも、どうして渉くんを誘かいするの?彼の家って、そんなにお金持ちなの?
わたしの頭の中は、ぐるぐると回転し、ある種のパニック状態になった。
「わかりました。じゃあ、おれは今からすぐそっちに戻ります。ガキとの待ち合わせがあったにせよ、イベントを途中で抜けてすんません」
竜二と名乗った男がスマホをきり、パーキングに止めていた黒い箱形の自動車、バンって言う車種なのかな、それに乗り込んだのを見て、ドキドキと頭の混乱は少し落ち着いた。
渉くんは、何かのトラブルに巻き込まれようとしている?…… うん、そうにちがいない。
パーキングから車が出て行く。
竜二が「会長」と呼んでた人間がいる場所へ向かうんだ。その会長こそが、誘かいをたくらんでいる張本人!
どこへ行くのか、つきとめなきゃ!
わたしは、とっさに車のナンバーを暗記する。
「品川3○○……」
間を置かず自転車に乗り、車の後を追った。
人も自動車も多い都心部だから、道路ではそんなにスピードは出せないし、がんばれば追いつけるはず……と思っていたら、相手はけっこう乱暴な運転で車と車の間をぬうように走り、わたしとの距離はどんどん離れていく。
とうとう赤信号につかまり、車は見えなくなってしまった。
あ〜〜ダメか〜〜〜。
ありったけの力でペダルをこぎ続けたから、もう足はクタクタ。
わたしは自転車からおり、道路沿いにある小さな公園に入った。スタンドを立てる力もなく、自転車をベンチにそのまま横倒しにして、腰を下ろす。
どうしよう……あの芸能事務所にいるのは、きっと悪い人たちだ……渉くんに忠告してあげないと……でも、はっきりしたことはまだなんにもわかってない……いきなり、誘かいされるかも、なんて言っても、信じてくれるかどうか……。
がっくりとうなだれた時、自転車の前カゴから、また小さな子の声がした。
「おい、あの黒い車、もう追いかけなくとも良いのか?」
振り向くと、前カゴの縁から顔を出しているあの生き物がいた。
「わっ !」とおしりを横にすべらせて自転車から離れたわたしは、一メートルほどの距離をへだてて、ベンチでその生き物とにらめっこをする格好になった。
顔だけ出していたそいつは、やがてカゴからはい出て、ベンチの上にぺチャッと落ちた。
トカゲ?わたしは一瞬そう思った。でもそれは、トカゲともかなり異なる、今まで見たことのない生物だ。
長さが五十センチくらいの細長い体は、緑がかった金色のウロコにおおわれ、太陽の光を浴びてキラキラ輝いている。頭には二本の角、鼻からは二本の長いヒゲが伸び、大きく横にさけた口にはたくさんの鋭いキバがのぞく。ギョロリとした赤い目が、じっとこちらを見つめていた。
「じゃから、追いかけなくても良いのかと聞いておる」
恐ろしい 形相とはあべこべに、かわいらしい声が再びわたしに発せられた。
信じられない……。
「な、なんで人間の言葉をしゃべってるの?トカゲもどきなのに……」
「失礼な!だれがトカゲもどきじゃ!これは龍だ、龍!知らんのか?」
カッとなってるみたいなんだけど、幼い声だから全然怒ってるように聞こえない。
「あの……日本の昔話とかにも出てくる、空を飛んだり、嵐を呼んだりする空想上の生き物でしょ?」
「空想などではない !ほれ、こうしてお前の目の前におるであろう」
「でも、龍ってもっと大きいんじゃ……」
「この世で、通常の大きさで現れてみよ、たちまち警察やら自衛隊やらが出動して、大騒ぎになってしまうではないか」
それはそうだ。この公園にはわたしのほか、遠くの砂場に数人の親子連れしかいないから、例え龍でもこんなに小さな体なら目立たないけれど、体長が何十メートル、何百メートルなんていう巨体で出現されちゃってたら、そうはいかない。
「それにしても、龍って人間の言葉を話せるの?」
「おお、話せるやつもおるが、わしは龍そのものではない。元々はお前と同じ人じゃから」
「えっ、人だったの!どうして、龍になっちゃったの?」
「人と言うても、わしは今から千年以上前、この板東に生きておった武人じゃ」
千年以上昔となると、西暦一〇〇〇年前後だから……平安時代!
「坂東?武人って、武将のこと?」
「坂東とは、今の関東だな。武人も武将も、今の世から見れば、まあ同じようなものかのう。そして、わしの名は俵藤太」
「たわらのとうた?『たわら』が名字で、『とうた』が名前?」
「まあそうじゃ。わしの名を知らんのか?」
「……知らない」
それを聞いて、小さな龍は落胆のため息をついた。
「まったく、今どきの日本人どもは、将門ばかりちやほやしおって。そもそも武家の棟梁たる、肝心のわしの名を知らんとは一体どうなっておるのじゃ」ぶつぶつグチる龍を前に、わたしはようやく落ち着きを取り戻してきた。将門とは、ひょっとして平将門のことだろうか。俵藤太とい う人物は、将門とどんな関わりがあるのだろう。いやいや、そんなことより、もっと根本的な疑問をはらさなくちゃ。
「俵藤太…… さん、がどうして今、龍の姿でわたしの前にいるの?」
「お前が望んだからであろう?」
「望んだ?わたしが?」
「わしの社(やしろ)で、お前は願い事を唱えたではないか。渉とかいう男児について」
ドキリとした。社って、あの神社のこと?わたしが、いつも行ってるあの……。
「あそこって、あなたがおまつりされてる神社なの?」
「おお、もちろん。あそこはな、生前のわしが公職から身を引いた後、隠居暮らしをしていた邸宅の跡じゃ。今あそこを管理しておる連中は、記録が残っておらぬゆえ、産土神、つまりその土地を元々守る神がまつられていると思うておるようじゃが、それは大まちがい。わしが死んだ後、神としてまつられた場所なんじゃ」
「全然知らなかった。だって、神社の名前がどこにも出てないんだもん」
「当初は立派な扁額(へんがく)もかざられていたが、長い年月の間に朽ち果ててしもうた。毎年行われる祭事も大層にぎにぎしかったが、次第にさびれ、今ではもう参拝に来る者すら数えるほどの有様。しかも、来る連中ときたら、わずかなさい銭しか入れぬくせに、宝くじで大金が当たるようにとか、高望みもはなはだしいような結婚相手と結ばれるようにとか、あきれるような願い事ばかりしていきよる。 バカバカしゅうて、聞く気にもなれぬわ」
「でも、神社ではだれでも神様に願い事をするものでしょ?」
「たわけ!ならばマオ、例えば、見ず知らずの人間がお前の元に前ぶれもなくやってきて、『十円あげるから、今日我が家のフロそうじ、トイレそうじ、洗たく、食器洗い、ゴミ捨て、おつかい、ぜ〜んぶやっといて』と頼まれて、引き受けるか?」
「引き受ける訳ないじゃない。十円ぽっちで」
「神とて、同じことじゃ。お前たちはようわかっておらぬようじゃが、どんな神でも、喜怒哀楽や損得の感情を持っておる。法外な願い事をしてくるやつらに耳を傾ける神など、この日の本のどこにもおらぬわ。まあ、さい銭箱に百万、一千万奉納しての願い事であれば、少しばかりは聞いてやらんこともないが」
「神様って、ちゃっかりしてるのね」
「それが世間というものじゃ」
「でも、さっきあなたは、わたしの願い事を聞いて出てきたって言ったわよね?わたしだって、さい銭箱には五円とか十円とかしか入れてない。ほかの人たちと一緒じゃないの」
「相応の金を持つ者の五円、十円とはちがう。お前がくれたのは、わずかなこづかいの中から、ひねり出した五円、十円じゃからな」
そんなことまで見通されていて、わたしは気恥ずかしくなり、少しうつむいた。
「それよりも、お前は初めて我が社に参拝して以来、願い事など一度もしてこなんだ。いつもお前の口からは『ありがとう』という言葉のみを受け取った。神社とはな、神に願いをする所ではない。本来は神に対し、日々つつがなく暮らせていることを感謝する場なのじゃ。参拝に来るたび、鳥居の前でぼうしを取り、礼儀正しく一礼し、手を合わせ、ていねいにさい銭を入れ、神に感謝するお前の姿を社の中から何年も見てきた。そもそも、神のいる場所では、位(くらい)の高い者でも礼儀上かぶり物は取らねばならぬ。ところが、帽子をかぶって参拝にくる連中の大半 は、そのまま境内に踏みこんでくるのだ。そうかと思うと、さい銭箱に銭を投げ入れてよこす。神に対して銭を投げるなど、無礼にもほどがあるというものじゃ。左様なふとどき者ばかりの中で、お前だけがわしの目を引いた。そのお前が、今日初めて願いを口にした」
わたしは言葉もなく、ただ龍を見つめた。
「わしは、けなげなお前の願いをかなえてやりたいと思うた。されど、ただかなえるだけではつまらぬ。何せ千年以上小さな社でじっとしておったのじゃ。今の世の街並みやら風俗やらをじっくりと見物してみたい。大勢の参拝客が来て、神の面倒を見る宮司や巫女が詰めておる神社ではなかなか外にも出られぬが、あようにさびれた社を少し留守にするくらいは許されるであろう。それで物見遊山もかねて、当面お前の守護神としてそばに寄りそってやることにした。目立たぬよう、小さな龍に化身してな」
「目立たないようにするなら、イヌとかネコとか、もっと普通の動物があるでしょ?」
「そんな下等な動物に化身できるか!それに、わしは人として生きていた若いころ、龍神の一族と縁ができてな、死んでからは龍神の力を得るようになった。それゆえ、化身するには龍の姿が一番都合良いのじゃ」
「神様が……わたしを守ってくれるの?」
「南蛮の言葉はあまり好まぬが、今風に言うならマオにとってのマイオンリー守護神というところかのう。お前ただ一人のために、わしのようにえら〜〜〜い神が守ってやるなど、そうそうあることではないぞ」
「それはまあ、ありがたいことなんだろうけど…… 」
子どもの声をした小さな龍にそう言われても、まだありがたみの実感はわいてこない。
ちなみに、「科学で証明されないものは、全て信じない」というのが同じ理系のパパとママの共通点で、二人とも幽霊だとか霊的な世界を信じるスピリチュアルだとかにはまるで関心がない。
「なんじゃ、そのあいまいな返事は?守護神らしく、さきほど、自転車にぶつけられそうになったところを、助けてやったではないか!」
「あ、それじゃ、あの男の人の顔にへばりついたのは、やっぱりあなた!黒い影は、 見まちがいじゃなかったんだ」
「無論であろう。スマホだかなんか知らぬが、よそ見をしながら自転車をこいでいたあのバカ 者をひっくり返し、お前のバッグの中に入り込んでから、初めて声をかけたのじゃ。すると、あろうことかバッグごとわしを放り投げおって。なんたるバチ当たりな」
「しょうがないでしょ!見たこともない、は虫類系の生き物に、目の前で急に話しかけられたんだから。でもあの後、バッグの中からいなくなってた。倒れた自転車を起こした時、前カゴの中には何もなかったように思うし……どこにいたの?」
「ああ、お前の上着、パーカーと言うのか、その頭巾の中にずっとかくれておった」
「げっ !わたしのフードの中に?ずっと?」
思わず身ぶるいする。そんなの全然気付かなかった。
「さいなことは横に置いて話を戻すが、追わずとも良いのか?あの車を!」
そうだ!それを忘れてた!
「追いかけたいわよ!でも、見失っちゃったんだもの!」
「まだ見失うてはおらぬ。あの車のにおいのあとはかすかに残っておる。それをたどっていけばよい」
「そんなに鼻がきくの?まるでイヌみたい」
「たわけ!イヌのきゅう覚など、わしの足元にも及ばぬわ。さあ、行くぞ!」
そう言うなり、小さな龍はわたしのひざに乗り、さらに上半身をはい上がってきた。
「ぎゃぎゃぎゃ!ちょっと、何をする気?」
身もだえするわたしにかまわず、龍は肩に乗り、そのままフードの中に入った。
「ここに入らせてもらう。前カゴやバッグより、お前に話しかけやすいからな」
「え〜〜〜〜〜」
本物のは虫類がフードの中に入ったりなんかしたら、きっと失神してるだろうけど、姿は似ててもそれが空想上の生物と思ってた龍であり、しかも言葉を話す神様だと言い聞かせることで、どうにか平静を保てている。
「さあ、公園を出て、左へ!早う進まぬと、においが消えてしまう!」
龍にせかされ、わたしは自転車に飛び乗った。
「ねえ、えーっと、俵藤太の神様……」
「長くてまどろっこしいのう、トウタで良い。トウタと呼べ。わしはお前をマオと呼ぶ。で、なんじゃ?」
「じゃあ、トウタ、フードから出すのは顔までだよ!いくら小さくても、あんまり目立つとユーマだってさわがれちゃうから!」
「ユーマ?なんじゃそれは」
「UMA。英語で『謎の未確認動物』を意味する単語の頭文字。ネス湖のネッシーとか、ヒマラヤの雪男とか、東北地方のカッパとか、そういったたぐいの未知の動物よ。うちのクラスの男子は、そういうのが大好きなの。小学生だけじゃなく、ミ ステリアスなものに興味をひかれちゃう人は多いんだから」
「今お前が言った生き物たちは、どれも実際に存在しておるが、姿を見られるだけで世間をざわめかせるとはせちがらい世の中じゃのう」
「い、いるの?ネッシーとか、雪男!」
「おるぞ〜。それより、その角を右じゃ !運転に集中せい !」
「う〜〜〜、わかった〜」
わたしは龍の指示に従い、必死でペダルをこぎ、ハンドルをにぎる。
相手は、わたしがいつもおまいりしてた神社の神様。本当なら、きちんと敬語で話さなきゃならないのに、相手があんなミニサイズだし、声も幼いもんだから、自然と友だち口調になってし まってる。でもまあ、いいか。トウタだって、そんなことを全然気にしてないみたい。それより今は、車を見つけることが先決なんだ!
目次
第 10 章 近日公開
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